イラク人質に自己責任はあるか。。。
 と題して、在外自国民保護は国家の基本的責務 というタイトルが目に入って来た。

 イラクで拉致された日本人について、4月9日の各紙は一斉に、イラクの武装グループが人質解放の条件として自衛隊の撤退を求めていると報じた。NGOや各団体など従来から自衛隊の派遣に反対であった人たちは、政府に向かって、人質救出に全力を挙げることを求めるとともに、人質解放のための自衛隊撤退要求の声明などを発表した。各紙の社説も人命優先を掲げた。他方、政府は即刻、撤退はあり得ないと言明した。

 しかし、なぜ、日本のNGOやボランティアは、自国政府に対してではなく、イラクの人たちに訴えないのか。イラクのNGOの人たちと連携しないのか。あなたたちと一緒似働いているわれわれの仲間たちが、あなたたちの武装グループに人質にされてしまったのはなぜなのだ、われわれの仲間の救出のために一緒に働いてほしい、となぜ語りかけないのか。

 そして、武装グループに対しては、あなたたちの子どものため、あなたたちイラク人のために働いている、国こそ違えあなたたちの仲間を人質にとってあなたたちにどのような大義があるのか、と問いかけないのか。NGOとしてはまずこのことを声明すべきであった。特に被災地神戸のNGOとしては、なかんずく被災地同士の連携を、人と人とのつながりを大事にしてきただけに、そうすべきであった。もっとも、数日を経てそうした動きが起こり、広まったことは特記しておくべきである。

 国と国民の関係とは

 NGOも人質の家族もだれもが、なぜか政府にたいして人質解放に全力を傾けるよう要求した、これは撤兵の要求とセットになっていたといってよい。自国民保護は政府の任務であり、今回は米国に約束した自衛隊の駐留継続問題がからんでいただけに、政府が救出に全力を傾けることは目に見えていた。救出後、政府首脳は苦々しげに『自己責任』を語った。

 国民と国家の関係を見るには、しかし、近代国家の成り立ちまでさかのぼって見ておく必要があるだろう。そもそも18−19世紀に成立した近代国家を狙ったのは、自由と財産を最重要なものと考え、要求する新興商人階級であり、この人たちが現在につながる平等権や各種の自由権、財産の不可侵を中心とする人権体系をつくり上げ、事故の政府を擁立してきた。

 そして、その政府の監視のため、フランス人権宣言のいう「圧制への抵抗」の権利を自分たちに保持した。だから、近代国家では国家を担う国民の保護は当然のことだった。これら自国民が在外で活躍し自国に富をもたらすとき、それを対外的に促進し保護するのも国家の役割であった。草した役割は今に至るも在外自国民の外交的保護権によって担保され、自国民保護は領事任務のひとつである。

 個の動きを止めるな

 ところで、これらの自国民は自国に富をもたらす人であり、自国の政策に寄り添う人であった。外国支援も日本の青年海外協力隊や米国の平和部隊のように政府がその責任で送り込んできた。しかし、1970年代になり、政府の意見とときに異なる意見をもつ団体が外国に出て独自に活躍するようになった。そこからギクシャクが始まった。

 しかし、選挙で政権交代のある欧米では自国民保護について揺らぎはなかった。名聞にして『自己責任』論を知らない。

 ところが、日本では、ボランティア元年といわれた阪神・淡路大震災のとき、危険を冒しても障害を乗り越えて若者たちは神戸を目指してきた。行政が機能していないところで若者たちが被災者の支えとなった、その後こうした流れは確実に底辺に広がり、そしてこの流れがいま、国境を越えて流れ始めている。政府のみが『公』を担っているのではない、われわれも担っているという意識とともに動き始めた。政府から独立した、自律した個が動き始めた。

 そして、今はじめてときの政府の見解と異なる意見をもち行動する自国民の保護が問題となった。今の世界のシステムでは、苦々しくとも、負担が大きくとも、自国民保護は政府の当然の任務である。なぜことさらに『自己責任』なる言葉で、生き生きしたこの流れを止めようとするのか。この流れこそ21世紀に大きく育てるに値するものである。。。

 芹田健太郎氏による21世紀の針路というコラムに載っていたのをそのまま記載しました。。。