お盆と教育。。。
 現代高齢化社会の中で、長い尊い人生の終焉を迎えられた方々の葬儀に接するにあたり、その遺影を拝し最近かんがえさせられることがある。それは男女を問わず、個性のあるいいお顔だちをされていることに気づかされるのである。そして大切な「生き字引」、「お手本」を失う寂しさはまた一入である。

 この時代に生まれた方々は、今から見れば物質的貧困と戦争、そして戦後日本の復興に中心的役割を担ってきた世代でもある。又、多くの方々は、ほとんどが尋常高等小学校しかでられていない世代でもある。しかしながら文学といい、文章能力といい抜群であり、趣味も多彩で、俳句、芸事、何でもこいである。

 それに比べ今の人は高校・大学等の高学歴(長学歴)に学ばせていただくも、先述の先輩方には足下にも及ばないのである。

 そんな中で考えさせられる一つに、学ぶことへの心構え、「学問」と「勉強」の違いということを感じる。戦前の教育は「学問」であり、すなわち学びたいことを問うのであり、又問うために自ら師を見つけることが常識であった。しかし戦後は学問から勉強に変った。すなわち好むとこのまざるにかかわらず勉(はげ)ませ勉(しい)る教育環境になったと感じる昨今である。そして戦後の教育三本柱でいわれる知育・徳育・体育の基本理念のなかで、特に食育・宗教教育という大切な分野が学校でも家庭でも無くなってしまった、その様な中で今育っている子供たちを見て不敏でならない。

 食育とは食することの大切さを知り、食することに感謝を感じ、食べる礼儀を学ぶことであるが、最近は朝食を食べないで学校に登校する子供が増え、又食するに当り「いただきます」というごく当たり前の作法もしない家庭が多いようである。先般ある学校で非行を重ねた少年少女の家庭環境を調べたところ、九割の子供たちが朝食をたべずに学校に通っている事実が報告されていたが、これ一つを見ても食の大切さがわかる。

 又、宗教教育とは、生きとし生けるものすべての生命(いのち)の尊厳を知り、秩序と調和、供養と礼拝、知恵と慈悲の心を学ぶことである。

 お盆を迎え、今は亡き先祖の菩提に手を合わせながら、自らの心を見つめ反省と感謝に心を致し、今一番問われている教育と宗教について、ご家族皆で話し合ってみることが要求されるときではないだろうか。

 これは、12日に来てくださった檀那寺の住職さんがとどけてくださったしおりに書かれていた、岐阜 寶心寺の星島光雅氏によるものです。

 皆さんは、どの様にお考えでしょうか?