「孤独の中に置き去りにせず」 「他者を」はなんとかなっても「自身は?」230430 <img
 「孤独の中に置き去りにせず」 「他者を」はなんとかなっても「自身は?」230430

 「どんなに孤独で苦しく悲しくてもあなたをそのまま受けとめ決して見放さない」
                    
 2023年は『顕浄土真実教行文類』が1224年に完成したとして、「立教開宗800年」を掲げている。
 その公式HPに掲示しているページの冒頭に、引用句が記載され、その出典根拠を「阿弥陀さまからの救いのメッセージ」と掲示している。

 医療の現場に<終末期緩和ケア&キュア>の理念があって、その中に次のワンフレーズを聴かされたことがる。
 「(終末期の患者を)孤独の中に置き去りにしない」の看護姿勢。
 先立ち「その人らしい生き方」「生活の質」という理念を示していたが、そこを深化する形で「孤独の中に置き去りにせず」の志が示された。

 話を聴いていて、想いうかべた。
 「西国八十八ヶ所霊場信仰」、いわゆる「お遍路さん」でその「菅笠 すげがさ」に「同行二人 どうぎょうににん」と書いてる。そう聴かされてきた。
 今、「孤独で苦しく悲しくても」を、「(地域のなかで他者を)孤独に置き去りにしない」をすすめて、ヒトはおのずと次に示す境涯にたどり着くことが不可避ではないか。

 結局は「自身を孤独の中に置き去りにしない」。
 これからの時代には「地域家族」の考え方があるも、それとは別に、思いめぐらす点がある。
 「お遍路さん」の「同行二人」に対応して、聴かされていたのは「2、一人いてしも 喜びなば 二人と思え 二人にして 喜ぶおりは 三人(みたり)なるぞ」のフレーズ。
 結語は「その一人こそ・・・・・・」と展開する。

 「お遍路さん」は弘法大師、「その一人こそ」は見真大師(=親鸞)ということなのだ。

 この根拠を「九条山 浄教寺」HP http://onkoshya.sakura.ne.jp/joukyouji/931/ が示している。(以下『御臨末の御書』 記載)
 「我が歳(とし)きはまりて、安養浄土に還帰(げんき)すといふとも、
  和歌の浦曲(うらわ)の片男浪(かたおなみ)の、
  寄せかけ寄せかけ帰らんに同じ、

  一人居て喜ばは二人と思ふべし、二人居て喜ばは三人と思うべし、
  その一人は親鸞なり。
 
  我なくも法(のり)は尽きまじ和歌の浦 あをくさ人のあらんかぎりは
                弘長二歳十一月 愚禿 親鸞 満九十歳」