2021 12/28 15:50
Category : 旅紀行
対本州交易増量が背景か 「浦雲泊」地名の成立211228。
「冬窓床」「跡永賀」「浦雲泊」
漢字で表記し、記載すると難読地名のなら釧路国釧路郡大字昆布森村、同跡永賀村の海岸線。
そこになぜ「泊」という、本州語にもアイヌ民族の語にもみられる地名で、地域を表現するようになったのであろうか。
北海道内では自治体名以外にも、行政字(あざな)として相泊(あいどまり 目梨郡羅臼町)がある。ほかにも赤泊(あかとまり 厚岸郡浜中町)、鴛泊(おしどまり 利尻富士町)をあげておく。
山田秀三氏は「鴛泊(おしどまり」の項目で、「ウシ・トマリ(ush・tomar 入江の・泊地)」説を採用する(天保5年=1834年 今井八九郎図)を採用する。そのうえで箱館奉行所文書にある「オシ・トマリの儀は四、五丁入込候間■にて深さ七尋もこれあり」と、舟着き場としての性能を示す。
※今井八九郎は松前家家臣で測量方。蝦夷地沿岸を実地測量し、山田氏の指摘は北海道大学附属図書館所蔵「利尻島図(天保5年測量)」に依拠すると考えられる。
※「四、五丁」の「丁 ちょう」は109メートルと計算しておく。
※また、「尋」は深さの単位で、「両手を左右に伸ばしたときの、指先から指先までの長さを基準」、通常は「1尋は5尺すなわち約1.515メートル、ないし6尺すなわち約1.816メートル」と計算されてきた。
本州での「泊」。たとえば現在の神戸港にあたる「大輪田泊」はあまりに著明。ほかにも越後国寺泊、南部国九艘泊(くそうどまり)の名も知られる。前者は和船の出入り湊の性格が強い。しかし後者の「九艘泊」には、「(陸奥湾内は波も穏やかだが)この海域だけは地形の関係からかよく時化ることがあり、波待ち(一時避難)のためにこの漁港を利用した」との伝承すらある。
いくつかの作業仮説を設定することで、この場は考察することにしたい。
作業仮説の第一。それは、前項で位置づけた「丸木舟にとって操船安全の海域」。そればかりではなく
作業仮説の第二。対本州交易対象品の生業産地化。
海獣の狩猟地にして、拾い昆布の中間集荷地。丸木舟操舟可能地ゆえの好適条件としての理解。つまり被災を避け、安全に生業を営みかつ集荷を達成できる地としての特性を有する地であたとする解釈である。
ただ、近世後期の文化年間(1804ー18年)の記録をみても、本州側経済が「冬窓床ー跡永賀ー浦雲泊ー十町瀬」間に「番屋 ばんや 操業集荷の作業施設」を設置していた記録は、今のところ見当たらない。
作業仮説の三。それは釧路港東部の海岸線において「コンプモイーセンポウシ」間の中継避難港の機能という点である。この間を丸木舟で航行する機会があったか、否か。その点も記録と必然性は考えにくい。しかし、中間避難港の一つとする理解は、本州側にとってもアイヌ民族側にとっても必要な点であったことは想定しておきたい。
今日、国土地理院電子地形図で読むと、江戸時代に「センポウシ」とされていた現在の「古番屋」の位置は厚岸湾の、外洋とは異なる安定度、静謐度がある。それには劣るも「コンプモイ」と称された昆布森漁港(釧路国)との間にある「浦雲泊」の地。そこはわずかな減災領域、避難海域としての価値と認識を、和船にあっても丸木舟操船にとっても必要な地点であった。それゆえに「泊」は、「コンプモイ=ポロ・トマリ」に対し、「ポン・トマリ」の地勢観が生じたのでないか。
「冬窓床」「跡永賀」「浦雲泊」
漢字で表記し、記載すると難読地名のなら釧路国釧路郡大字昆布森村、同跡永賀村の海岸線。
そこになぜ「泊」という、本州語にもアイヌ民族の語にもみられる地名で、地域を表現するようになったのであろうか。
北海道内では自治体名以外にも、行政字(あざな)として相泊(あいどまり 目梨郡羅臼町)がある。ほかにも赤泊(あかとまり 厚岸郡浜中町)、鴛泊(おしどまり 利尻富士町)をあげておく。
山田秀三氏は「鴛泊(おしどまり」の項目で、「ウシ・トマリ(ush・tomar 入江の・泊地)」説を採用する(天保5年=1834年 今井八九郎図)を採用する。そのうえで箱館奉行所文書にある「オシ・トマリの儀は四、五丁入込候間■にて深さ七尋もこれあり」と、舟着き場としての性能を示す。
※今井八九郎は松前家家臣で測量方。蝦夷地沿岸を実地測量し、山田氏の指摘は北海道大学附属図書館所蔵「利尻島図(天保5年測量)」に依拠すると考えられる。
※「四、五丁」の「丁 ちょう」は109メートルと計算しておく。
※また、「尋」は深さの単位で、「両手を左右に伸ばしたときの、指先から指先までの長さを基準」、通常は「1尋は5尺すなわち約1.515メートル、ないし6尺すなわち約1.816メートル」と計算されてきた。
本州での「泊」。たとえば現在の神戸港にあたる「大輪田泊」はあまりに著明。ほかにも越後国寺泊、南部国九艘泊(くそうどまり)の名も知られる。前者は和船の出入り湊の性格が強い。しかし後者の「九艘泊」には、「(陸奥湾内は波も穏やかだが)この海域だけは地形の関係からかよく時化ることがあり、波待ち(一時避難)のためにこの漁港を利用した」との伝承すらある。
いくつかの作業仮説を設定することで、この場は考察することにしたい。
作業仮説の第一。それは、前項で位置づけた「丸木舟にとって操船安全の海域」。そればかりではなく
作業仮説の第二。対本州交易対象品の生業産地化。
海獣の狩猟地にして、拾い昆布の中間集荷地。丸木舟操舟可能地ゆえの好適条件としての理解。つまり被災を避け、安全に生業を営みかつ集荷を達成できる地としての特性を有する地であたとする解釈である。
ただ、近世後期の文化年間(1804ー18年)の記録をみても、本州側経済が「冬窓床ー跡永賀ー浦雲泊ー十町瀬」間に「番屋 ばんや 操業集荷の作業施設」を設置していた記録は、今のところ見当たらない。
作業仮説の三。それは釧路港東部の海岸線において「コンプモイーセンポウシ」間の中継避難港の機能という点である。この間を丸木舟で航行する機会があったか、否か。その点も記録と必然性は考えにくい。しかし、中間避難港の一つとする理解は、本州側にとってもアイヌ民族側にとっても必要な点であったことは想定しておきたい。
今日、国土地理院電子地形図で読むと、江戸時代に「センポウシ」とされていた現在の「古番屋」の位置は厚岸湾の、外洋とは異なる安定度、静謐度がある。それには劣るも「コンプモイ」と称された昆布森漁港(釧路国)との間にある「浦雲泊」の地。そこはわずかな減災領域、避難海域としての価値と認識を、和船にあっても丸木舟操船にとっても必要な地点であった。それゆえに「泊」は、「コンプモイ=ポロ・トマリ」に対し、「ポン・トマリ」の地勢観が生じたのでないか。