2002 01/12 12:14
Category : 日記
草茂みベースボールの道白し
正岡子規が昨日、新世紀特別表彰により、野球殿堂入りをした。
俳人、歌人で有名な子規は、
アメリカから伝わって間もなかったベースボールに熱中。
明治十七年(1884年)に入学した東京大学予備門時代にそれを知り、
左腕の投手、捕手としてならした。
幼名の昇をもじって、『野球』(の・ぼーる)のペンネームを使ったことから
野球の名付け親と呼ばれたことがあるらしい。
実際は『野球』と名付けたのは、
子規の後輩、中馬庚で1970年に野球殿堂入りを果たしている。
ただ子規も野球ルールの紹介記事を書き、
「打者」「走者」「飛球」などの訳語を編み出し、
草創期の野球普及に大いに貢献した。
上記は日本経済新聞のスポーツ欄のコラムからではあるが、
私は松山の子規記念館に三度ほど足を運んでいて、
そのことを知っていた。
彼の没後、今年でちょうど百年になる。
正岡子規の名前がスポーツ欄に掲載されることは、
彼の健康だった頃に思いを馳せると、
何かしら子規と共に喜びを分かちあいたい気持ちになってくる。
プロ野球は面白くなくなってきたようだが、
まだまだ草野球の面白さは捨てたもんじゃない。
「フィールド・オブ・ドリームス」は野球の夢と楽しさを語ってくれる。
今やかの三つのベースに人満ちてそぞろに胸の打ち騒ぐかな
正岡子規が昨日、新世紀特別表彰により、野球殿堂入りをした。
俳人、歌人で有名な子規は、
アメリカから伝わって間もなかったベースボールに熱中。
明治十七年(1884年)に入学した東京大学予備門時代にそれを知り、
左腕の投手、捕手としてならした。
幼名の昇をもじって、『野球』(の・ぼーる)のペンネームを使ったことから
野球の名付け親と呼ばれたことがあるらしい。
実際は『野球』と名付けたのは、
子規の後輩、中馬庚で1970年に野球殿堂入りを果たしている。
ただ子規も野球ルールの紹介記事を書き、
「打者」「走者」「飛球」などの訳語を編み出し、
草創期の野球普及に大いに貢献した。
上記は日本経済新聞のスポーツ欄のコラムからではあるが、
私は松山の子規記念館に三度ほど足を運んでいて、
そのことを知っていた。
彼の没後、今年でちょうど百年になる。
正岡子規の名前がスポーツ欄に掲載されることは、
彼の健康だった頃に思いを馳せると、
何かしら子規と共に喜びを分かちあいたい気持ちになってくる。
プロ野球は面白くなくなってきたようだが、
まだまだ草野球の面白さは捨てたもんじゃない。
「フィールド・オブ・ドリームス」は野球の夢と楽しさを語ってくれる。
今やかの三つのベースに人満ちてそぞろに胸の打ち騒ぐかな