トンボホテルと満月と奥山ウグイス
♪奥山住まいのうぐいすが 梅の小枝で昼寝して
   春が来るよな夢を見て ホケキョホケキョと泣いていた…

真夏の八幡平ロケで、ウグイスが鳴いていた。蝉時雨とウグイスが混在する40℃近い気温の下で野犬のように舌だしあえぎながら夏の盛りを撮った夕、思いついてワタナベに鶴の湯に連絡をさせ露天に入らせてもらった。真夏の温泉で汗をしぼり出しひと息入れ、夕日と月の出を待つために再び湖畔へ。見つけた撮影ポイントに日暮れとともにトンボの群れが。数百匹の赤トンボが眠りにつこうとするように手を伸ばしても動かなくなっていた。群れ飛ぶトンボはなんども見たが群れ休む?トンボを見たのは人生初めてのこと。なんともいえない満ち足りた気分にさせられているところに見事な落日がはじまった。田沢湖畔、森の分校の近く。5年前の炎夏。その夜、湖面を染める冴えざえとした満月もゲット。童話のような夏を閉じた。東京、昨日で梅雨明け。やっとまともな夏の陽ざしに。

あかりやさんが夕べ送ってくれていた「十九の春」嘉手苅林昌バージョンを10回リピートし目覚めとする。いろいろあったが「仕事」として最低限のハードルは越えることができた。14日深夜1時、チェック用DVDに落とし終わった。苛立ちはゼロ。奇妙な満足感あり。望まれたことを、望まれたままにカタチにすることが「仕事」なら…ま、満点(‥;)。

ウグイスでも聞きながら眠るように終わりたい。胸のうちにだけ、その桃源郷が見えている。

  ♪見捨て心があるならば 早くお知らせ下さいね
   歳も若くあるうちに 思い残すな明日の花
   私があなたに惚れたのは ちょうど十九の春でした
   

嘉手苅林昌も朝崎郁恵も終わりは「春が来るよな夢を見て ホケキョホケキョと泣いていた」なのだが、誰が唄うのか「infinix」版ではさらに一呼吸おいてから「♪春が来るよぉなぁ」と呼びかけるように語ってフェードアウト。この余韻を誰が発想したのか知らないが、この一点だけで気持をさらう。終わりなのに、始まりとなっていく。歌が「普遍」を獲得する瞬間、である。ふり返った風景は他者にもさらに当人にとっても動かすことのできない「記憶」なら、それは単なる叙景にすぎない。ひとしおの思いを忍び入らせることで「景色」はとうとつに「情」に変容する。偲ぶことすら「いま」と「あす」のための原資となる、その瞬間。叙「景」から叙「情」へ。「infinix」版は、この最後の1フレーズによって、うまさやアジを越えた[なにか]を獲たのだと思う。
「仕事」は、かくあるべし。いや、かくありたい(>_<)

コミュニケーションとは、いわば「恋歌」。
思いのたけを。いかにどれだけ想う相手に伝えられるか。
そこに尽きるのだ。
そして「恋歌」は「相聞」でなければならない。
いや、「相聞」であるべきである。

自戒をこめて。