●資料/ニュース映画の20世紀
http://www.n-eigashinsha.jp/kiroku.html
日本映画新社アーカイブページ/ニュース映画の20世紀より転載

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これは2000年12月インターネット博覧会「20世紀ニュース映画」上映会用リーフレットに掲載されたものです。毎日映画社愛波様よりご提供いただきました。
ニュース映画の20世紀 〜起源・隆盛・衰退〜
毎日映画社 愛波 健
20世紀を目前にした1900年(明治33年)10月、東京神田の錦輝館という劇場で「北清事変活動大写真」の7日間興行が幕を開けた。この年5月に勃発した義和団事件鎮圧のため、列国の要請で出兵した広島の第5師団に従軍した撮影技師、柴田常吉が持ち帰ったフィルムの上映が評判を呼んだ。柴田を派遣したのは、写真機や幻灯などを商っていた吉沢商会で、翌1901年にかけて横浜、静岡、名古屋、京都、大阪と巡業した興行は大成功を収めた。
これは、日本人が撮影した戦争記録映画の本邦初公開だった。もちろん「ニュース映画」という言葉は生れていなかったが、日本におけるニュース映画の事始めは、まさに20世紀の到来と時期を一つにしていた。
1904年(明治37年)に朝鮮と満州(中国東北)の支配をめぐって日露戦争が起きる。従軍カメラマン撮影の「日露戦争活動大写真」興行が人々の戦勝気分を高揚させて人気を集めた。
定期的なニュース映画が初めて登場するのは、1914年(大正3年)東京シネマ協会が毎月2回フィルムを発売した「東京シネマ画報」である。大正博覧会の実況、両国の川開きなどの出来事を実写したものだったが、映画の配給ルートがない時代では事業として成り立たず、永続きしなかった。1917年(大正6年)には、明治末期から活動写真の巡回上映を新聞販売に活用していた大阪毎日新聞社が、「フィルム通信」のタイトルでニュース映画を毎週、大阪中之島公園で公開した。翌年、シベリア出兵の記録映画をきっかけに日活が「日活画報」をスタートさせた。いずれも時期尚早だったのか短命に終わった。
1921年(大正10年)皇太子裕仁親王(のちの昭和天皇)の渡欧中のご動静撮影を東京日日新聞・大阪毎日新聞(いずれも毎日新聞の前身)がゴーモン社のカメラマンに委託した。この映画が東京日比谷公園で公開されると、一夜で13万人の観衆が押し寄せた。この時の35ミリ可燃フィルムは50年後に宮内庁の書庫で発見され、復元された。
皇太子ご訪欧記録上映の盛況に触発されて、1923年(大正12年)の関東大震災、翌年の皇太子ご成婚の大きな出来事に際しては、新聞社が映画による速報を競い、ニュース映画製作が活況を呈した。大阪毎日新聞社が「大毎キネマニュース」の製作を開始、松竹など映画会社5社が配給を受け持った。新聞社による定期ニュース映画が、ここに本格化した。
時代は昭和に移る。1931年(昭和6年)満州事変が起きる。関東軍は自らの謀略による奉天(瀋陽)郊外の鉄道線路爆破を中国側の仕業だとして満州全土を占領する挙に出た。翌年には第1次上海事変で日中両軍の戦闘が起きる。やがて「非常時」という言葉が叫ばれる。ニュース映画の内容は、いきおいこのような時代の色を濃くする一方、欧米の映画会社と提携して海外のニュースも盛り込むようになった。
1934年(昭和9年)「朝日世界ニュース」「大毎東日国際ニュース」「読売ニュース」の三大紙のニュース映画が出そろう。3年後には同盟通信社(共同、時事両通信社の前身)の「同盟ニュース」が加わる。1937年(昭和12年)北京西郊の廬溝橋での衝突を機に、日本は戦火拡大の道を進んだ。「皇軍」の進撃を伝える映像とナレーションは、全国の映画館で観客の歓呼を呼び、時には「万歳」が起きることもあった。ニュース映画は、戦争と歩調を合わせて最初の短い全盛期を迎えた。東京有楽町の日劇地下にニュースと短編映画の専門館が開場したのも、この時期のことである。
1938年(昭和13年)映画の事前検閲やニュース、文化映画の上映を義務付ける映画法が制定された。1940年(昭和15年)4月、生フィルムの節約を一つの理由として従来の新聞・通信4社のニュース映画が国策によって統合され、社団法人日本ニュース映画社(のちに日本映画社)が設立された。以後、太平洋戦争の敗戦まで、ニュース映画は、唯一、同社が制作する「日本ニュース」のみとなった。国民総力戦の報道統制の手段としてのニュース映画は、内閣情報局の監督下におかれ、6大都市、次いで全国の映画館で強制上映されるようになった。
1945年(昭和20年)敗戦。翌年1月、新出発した株式会社日本映画社が「日本ニュース」を、3月には朝日映画社が「新世界ニュース」を出す。その後、次々に新聞社、映画会社が製作、配給に乗り出し、ニュース映画の第二の全盛期を現出する。新聞にはニュース映画批評の常設欄が設けられ、専門館には大勢の観客が集まった。ニュース・カメラマンの哀歓を描いたフランキー堺主演の劇映画「ぶっつけ本番」が評判を呼んだ。過去への反省から、批判精神を備えた報道も一特色で、ジャーナリズムの一つのジャンルとしての地位を占めるようになった。
しかし、第二の全盛期も決して永くはなかった。1960年(昭和35年)の映画製作本数は548本、全国の映画館の数は7457館に達したが、それがピークだった。そのわずか2年後、テレビの普及は全国全世帯の485%に達し、NHKテレビの受信契約者は1千万人を突破した。
娯楽の王座を占めていた映画の斜陽化も始まり、同時に映像による報道のトップランナーだったニュース映画も衰退期に入る。1989年(平成元年)全国の映画館数は1912館で、30年前の4分の1近くにまで激減した。ニュース映画の製作中止が相次いだ。今日では、劇場用のニュース映画は全く姿を消した。
日本におけるニュース映画の生涯は、戦争と平和の交錯する世紀であり、映像の世紀でもあった220世紀の一文化の興亡でもあった。その前半生の一時期は、国家総動員体制の一翼を担う存在であったが、そのことを含めた生涯を通じて、映像による歴史の証人である。「ニュース映画で20世紀の歴史を観る」ことは、同時に「ニュース映画の歴史に20世紀を観る」ことでもある。