眠気覚まし
件名 : [tojibu2:00277] 道具は選ぼうね
送信日時 : 2002年 3月 26日 火曜日 1:38 AM
差出人 : Toru Mashiko


《東京星菫派》の[●dj資料/げに春は…桜 ]は十年前に
βカムで撮影した千鳥ケ淵の春霞と春雨の桜。
《月澄む空に》の[●春爛漫/千鳥ケ淵 ]は
昨晩デジタルHD-F900で撮影した曇り日の桜。
カメラマンは同じ倉持さん。VEも同じ長岡さん。
ほぼ同じ場所の、あるいは同じ樹の枝かもしれない桜だが、
比較してみるとカメラマンが桜に向ける眼差しは変わらず
静謐さを維持しているが、キャメラそのものの質が激変している。
そのことがこれほど明りょうに出るとは思わなかった。

高画質になるということは、対象のアラが目立つなどという
減点法とは対極にある美質なのだ。
問われるのはただ二点。
キャメラマンの資質。つまり才能。
対象物の価値。つまり存在意義。
それだけだということが、よくわかる。

撮るに足るターゲットを
撮るべき才能がおさめる。
なんと自由で大らかな神話的世界であることか。

デジタルを笑うことの愚を、
もうすべての業界人は慎むべきである。

ビデオはギラつきがという嘘も、もう取り下げるべきである。
十年前に倉持さんがβカムで撮った映像を見れば一目瞭然。
彼の桜には一瞬のギラつきもなく、気品と気概に満ちている。
十年の歳月が経過してなお、その二つは盛んである。
デジタルHD-F900という屈指の道具が彼の才能を
さらに押し広げていることがわかる。
巷間伝えられるフィルムとビデオの違いなど
じつはとっくの昔から存在していない。
あるのはただつまらない才能とすぐれた才能だけである。
その無窮の差異だけである。

撮影部の若いカメラマン達にお願いしたい。
筆を選ばずに書をものにしていいのは弘法大師。
君たちはとことん筆を選ぼうね。
いい筆を選び抜いているうちに、いつか才能も鍛えられることがある。
いやありえる。だから道具は選びましょう。
すぐ近くに倉持さんがいるのだから、参考にしてくださいな。


連続編集も六日目に突入したディレクターとしては、
疲れてくると、こういうことぼやきたくなるんだよなあ。
人生は一度しかないものね。


2つのほぼ同じ場所で撮られた桜をウェブチェックしながら、
そんなことを誰かに話したくなったので…


眠くて眠くて、
もう疲れ果てた。あとは明日に託して今夜はここまで。
編集済みをプリントしてもらったら帰ろう。