《満水子》上巻読了、さて迷う。
高樹のぶ子の新作《満水子》/講談社刊の上巻を読み終り、先へ進むかどうか迷っている。帯に著者の言葉が引かれている。

  -満水子という狂奔の川を、
  謎を追いかけて泳ぎのぼった中年男の
  甘苦しく哀れな一年がここに有る。
  恋とはかくも無残なもの、
  ゆめたわむれに始める勿れ、である。

と。
さらに上下巻の帯には次のコピーが分かれて記されている。

  「男にとっての恋とは、性を含む女の謎に振り回され飲み込まれていくことであり、
   女の恋とは、自らの生命の根源に向かって遡上する男を、
震え怯えながら受け入れることではないかと思う」

二年間、福島の水のある風景を追ってきたせいか、《水》という文字に、ことばに強く反応するようになっている。たぶんこの《満水子》もそんな気分の先にひっかかかったタイトルなのだ。「満ちていく水の子」と書いて「まみこ」と読ませる。この風変わりな名に興味を魅かれた。

高樹のぶ子の小説は苦手だったのですこし躊躇したが、読み出した。《満水子》の設定はいいのだが、とりわけ水に映った光景を描くのではなく水の底を描く水の画家という造型は新鮮だった。がそれ以外の色彩がどこか投げやりなのだ。昨日書かれた《時代小説》を読まされているようで、表現としての《リアル》さが決定的に欠けているように感じてならない。ところどころ出てくる女性固有のいいまわし、視点がなければつまらねえソープオペラだな、とさえ思う。

帯だけにすりゃいいものを。