タン・ドゥンの「新マタイ受難曲-永遠の水」
11.17に水の惑星MLに出した「感動と自戒」のコピー

「感動と自戒」
タン・ドゥンの「新マタイ受難曲-永遠の水」
/11.16 東京オペラシティコンサートホールについて

ヴァイオリンとチェロ、ソプラノとバリトン、三つのパーカッション、合唱団というきわめてシンプルな構成で演じられた
タン・ドゥンのマタイ受難曲は、アジアの才がヨーロッパをねじふせたようにも、みごとに溶け込ませたようにも感じられ、
いままでに一度も聴いたことのないマタイ受難曲を展開していました。
この試みはたぶん録音されたものの再生では、その卓越性を感じることは不可能ではないかとも思えました。
ひとり宗教だけが到達し構築しうる大伽藍=巨大な空虚という場所を得てはじめて成立しうる音のモニュメントであると感じます。
パイプオルガンを設置するために必然的に巨大な空間となった
東京オペラシティコンサートホールは、現代の大伽藍みたてとしては、なかなかの空間でした。

洗礼を象徴化するための「水」を使ったパーカッションは、
通常のコンサートと比べて意図的につくられた暗部と、
多用されている照明により、想像をはるかに越えた効果をあげていました。そのまま「水の惑星」の喜怒哀楽のシーンつなぎに使いたいと思えるほどに、ビジュアル的にもすぐれたものでした。

ラストの「水とキリストの復活」で、短い暗転の後、
十字架状に配置した水盤で演奏者達が洗礼の仕草を続ける場面は、
これまで観てきたどのコンサートともまったく異なった
震えるような臨場感を感じさせられました。

タン・ドゥンは、確かに偉才ですね。
一年前に井口氏から作曲家としてタン・ドゥンを推薦されたとき、
なぜこの凄さに気づけなかったのか、恥ずかしいです。
正直に言うと、家に帰ってあわてて去年買った三枚のCDを聴いたのですが、昨夜の感動はやはり感じられなかたった。板で再現される世界には昨夜感じたピュアさも凄みもないように思えました。
たぶんこれが自分の限界なのだな、と感じました。
映像の仕事は、各パートの専門家がいることではじめて成立するのだという原点をつい忘れてたように思います。
タン・ドゥンのマタイ受難曲に感動しながら、反省の多い夜になりました。


余談ですが、
11月23日午後2時30分から浜離宮朝日ホールの
「新しい合唱団第9回演奏会」で、
湯浅譲二氏の「擬声語によるプロジェクション」が曲目の一つとして合唱されるそうです。
この演奏会のレベルがどんなものかまったくわかりませんが、
聴いてみようと思ってます。