ナガシマと「貪欲」。
長嶋が宙に舞った。
ゆうべは各局のニュースを全部観て、
けさはコンビニで全スポーツ紙を買ってしっかり確認した。

中学の時に武宮二軍監督の息子が同級生で
その関係で学校の帰りに
多摩川グラウンドによく遊びに行っていた。
ある日、例のおでんやの前で、現役だった頃の長嶋に合った。
生徒手帳にサインしてもらい、握手してもらった。
「勉強がんばるんだよ」と言われたことが、いま考えれば笑えるが、一週間くらい右手を洗わなかった。

あんなふうにオーラのようなものが出ている人間を
その後見たことがない。

野村がインタビューに答えて
「金と権力にあかせての優勝に価値はない」
などと言っていたのがおかしかった。
評論家の玉木もそんなことを言っていた。

ここまでたどりついてしまった
消費資本主義国家日本で、
こんな寝言をしたり顔でいう人間がまだいることが新鮮だった。

どんぐり集めて背比べして、誰がチャンネル合わせるんだ?
みんな同じくらいの人が集まって一生懸命勝ったり負けたりしているのはほんとうにおもしろいのか?
ヤンキースがあれだけの選手を集めなかったらニューヨーカーは
スターバックスの小難しいオーダーこなしながら何を話題にするんだ?タバコも吸わずに。
マラソンの高橋は半年近い海外合宿をするのにロスで皿洗いしてから行ったのか?



なんだかよくわからなくなりつつも…。



平等とか等しくといった幻想をどうしたらあんなふうに
いつまでも持ち続けられるのだろう。

プロがギャラになびかず、何に心魅かれてプレーすればいいのだろう。行き着くところまで来た感の濃い 消費資本主義国家のこの日本で、なぜスポーツだけが幼児のような批評にさらされ続けるのだろう。

際限のない「貪欲さ」。
それこそが市民生活ときっちりと異なるプロの世界ではないのか。
ただの「貪欲」だけでは、だいいち小市民にかなわねーだろうが。
携帯片手の親指族で終わっちゃうだろーが。


際限のない「貪欲さ」だけが、
スポーツにかぎらず、あらゆる表現世界の究極のドラッグである。
これが消えれば、表現は死ぬ。
残るは気のめいる日常という名の地獄だけである。