豊臣国松
京都の豊国廟へお詣りして来ました。

5月23日は、豊臣秀頼の庶子(本妻以外から生まれた子)の国松の命日となっています。

豊臣国松は、生後すぐに若狭京極家(秀頼の伯母・常高院の嫁ぎ先)に預けられた後に、乳母の兄である若狭の砥石屋弥左衛門の養子となりました。

これは秀頼の正室である千姫をはばかったものと見られています。
大阪冬の陣が起こると、秀頼の隠し子との詮議を受けぬよう、常高院と共に大坂城に入城し、その時に、生まれて初めて父の秀頼と面会したと言います。

その後、翌年の大阪夏の陣では、国松は秀頼と盃を交わし、田中六郎左衛門(京極家侍、傅役、乳母の夫)・乳母と共に城を落ち延びました。

しかし、徳川方の捜索により国松は京都所司代の板倉勝重のもとに連行され、5月23日に市中引き回しの後で、六条河原で田中六郎左衛門、長曽我部盛親と共に斬首されました、享年8歳でした。

国松のお墓はその後に豊国廟に祀られて2つ並ぶ小さなお墓が国松のお墓です。

その縁もあり、豊国廟では命日となる5月23日に国松の寿命の8枚限定で御朱印を授与されています。

なお、国松には妹の奈阿姫がいました。

奈阿姫は、女の子と言う事で養母である千姫に救われて養女となって命は救われました。

しかし、鎌倉東慶寺で髪を下ろして出家して天秀尼となりました。
天秀尼は成長ののちに会津騒動などで弱き女性を守ることに力を尽くし、また若き江戸狩野派の絵師を支えたと言われています。