不開門
これまでにも京都の東寺について書いて来たが、もう少し東寺についていくつか書きたいと思う。

東寺の東側にある「東大門」だが、「不開門」(あかずのもん)とも呼ばれている。

なぜ東大門が開けずの不開門となったのか、そこにも話が伝わっている。

時は建武元年(1334年)9月、東寺では五重搭の落慶供養が行われていた。

この時の五重搭は三代目で、永仁元年(1293年)に再建されてから41年もの間に落慶供養は行われていなかったのである、ちなみに現在の五重搭は徳川家光の時代に再建された五代目である。

その落慶供養には後醍醐天皇をはじめとして足利尊氏・新田義貞・楠木正成・名和長年・佐々木道誉・千種忠顕などなど鎌倉幕府を倒したそうそうたるメンバーである。

これから僅か1年後の建武2年(1335年)、後醍醐天皇と足利尊氏は決別して敵対することになる。

鎌倉にいた足利尊氏に対して、後醍醐天皇は新田義貞軍を討伐のために差し向ける、こうして尊氏は朝敵となってしまったのである。

その後、足利軍は鎌倉から京へ攻め上ったが朝軍の前に敗れて九州に逃れる。

しかし、北朝となった光厳上皇からの院宣を受けて逆臣の汚名をはらすと、九州から朝軍を打ち破りながら攻め上り、やがて七万の兵と千数百の軍船を持つ大軍となり、湊川の合戦では楠木軍をも打ち破ってしまう。

楠木軍が敗れたと聞いた後醍醐天皇は、比叡山に逃れると新田軍を中心として比叡山の僧兵も加えて守りを固めた。

一方の足利軍は、京に入ると光厳上皇を奉じ、光明天皇を立てて東寺に軍を引いたのだった。

東寺は四方を土塀で囲まれており、境内には馬が繋がれ軍勢であふれて城塞のようになったのである。

最澄の比叡山に南朝の後醍醐天皇の御所となり、空海の東寺が北朝の光明天皇の御所となったのは皮肉なものかも知れない。

やがて京都の町のあちこちで戦いが行われることになり、足利軍の本拠地となった東寺の近くでも戦端が開かれた。

新田義貞が率いる2万の騎馬軍は大宮通りから東寺を目指し、加えて名和長年が率いる軍勢も猪熊通りから東寺に向かっていた。

向かえる足利軍も東寺の門を開けて打って出て六条大宮辺りで両軍の激突となり激しい攻防戦が繰り広げられた。

しかし、徐々に新田・名和軍が優勢となり足利軍は苦戦となっていった。

もう持ちこたえられない・・・

そう思った足利軍は退却を決意し、新田・名和軍に追われるように東寺の本軍を目指して退却していくしかなかった。

痛手を負った足利軍は東寺の東大門から次々と境内に逃げ込み、最後の一兵が足を踏み入れるやいなや東大門の門が閉じられたが、その門にも幾すじもの矢が打ち込まれるほどきわどい退却だったと言う。

やがて2万を越える新田・名和軍が東寺の周りを取り囲み、総指揮官の新田義貞が東大門の前から足利尊氏に一騎打ちを挑んだが、足利軍は応じずに東大門は閉じられたままだった。

それから東大門は閉じられたままで開かれる事はなく、それ以来、この門は「不開門」(あかずのもん)と呼ぶようになったそうだ。

今でも閉じられたままの不開門には、この折の矢の跡が残っていると言われ、戦いの激しさを物語っていると言う。

また、もう一つの伝説では、この東大門での争いの折に、東寺の境内の南西に鎮座する「鎮守八幡宮」から何本もの鏑矢が新田・名和軍をめがけて飛んでいったと言われ、それによって戦局は逆転し、やがて足利軍が有利となっていって勝利を得ることになったとも言われている。

実際に、京都の各地で市街戦を行っていた足利軍が東寺にかけつけ、東寺を取り囲む新田・名和軍に攻め込んで名和長年は討ち死にしてしまい、南朝軍は退却を余儀なくされたのだ。

この戦を境に足利軍が有利となって勝利するのであるから、この東寺の攻防が天下分け目の決戦と言えるかも知れない。

やがて足利尊氏は征夷大将軍となり室町幕府を開くのだが、東寺には梵鐘を寄進したと言われ、その梵鐘はながく使われて来たが傷みが激しくなって宝物館に収められて現在はそれを模倣した二代目が使われているようだ。


さて、その足利軍に加勢した「鎮守八幡宮」についても伝説が残されている。

東寺の南大門を入った西側、以前に書いた灌頂院のの東隣にある真新しい朱塗りの社が「鎮守八幡宮」である。

東寺の創建当時からあったと言われて古い社で、東寺のにならず平安京の守護神として祀られていたそうで、最近になって新しく建てかえられたのである。

その鎮守八幡宮の伝説であるが平安京の初期に起きた「薬子の乱」にも関わるお話である。

桓武天皇が平安京への遷都を行い、その後を継いだ「平城天皇」や「嵯峨天皇」の時代の話だ。

病気により退位し上皇となった「平城上皇」に代わって天皇に即位した「嵯峨天皇」は平安京の繁栄のために力を注いでいた。

唐から戻り、入京の許可が無いまま大宰府にいた空海が、入京の許可を得て京都に入ったのも嵯峨天皇になってあらであり、空海と嵯峨天皇はその後に親しく接するようになったと言う。

ところで「平城上皇」は病気のためと言いながらも藤原薬子ら側近と供に各地を転々としていたが、旧都である平城京に落ち着くと宮殿を新造し、藤原薬子らと供に再び実権を握ろうとして謀反を企てた、世に言う「薬子の乱」である。

平城上皇は、かってに平安京を廃して平城京に都を戻すなどの命を下し、突然の反旗に朝廷は騒ぎたった。

嵯峨天皇は、すみやかに乱を鎮めようと思い、空海にあって相談したと言う。

空海は東寺にあった鎮守八幡宮に篭ると薬子の乱の平定と嵯峨天皇の戦勝を祈願したのだった。

嵯峨天皇は腹心である坂上田村麻呂や藤原冬嗣らを平城京の造営に差し向けると偽って伊勢・近江・美濃の関所を固めさせ、それとともに藤原薬子の官位を剥奪し、薬子の兄の藤原仲成を拘束した。

平城上皇側も急いで兵を上げたが、嵯峨天皇側の前には敗れ去り、平城上皇は平城京に戻って剃髪して仏門に入り、藤原薬子は毒を飲んで自害した。

こうして薬子の乱は平定されたが、嵯峨天皇はこれも空海が鎮守八幡宮で祈願したおかげと思い、空海に八幡大菩薩を祀るようにしたいと話されたそうだ。

この時には鎮守八幡宮にはまだ御神体は祀られていなかったのである。

空海が考えていると頭上に「八幡神」の姿が現れたと言う。

その八幡神は僧侶の姿をしていたので、空海はその姿を紙に写し描くと、自らノミを取って八幡神の姿を彫り上げたのだった。

こうして彫り上げられた「僧形八幡神」が現在も鎮守八幡宮に祀られているのだそうで、この僧形八幡神像は日本最古の神像とも言われる貴重な物で東寺で起こった災害や火災のおりにも持ち出されて護られたそうだ。

僧形八幡神の他にも2体の女神像、それに竹内宿禰像も同じように空海によって彫られて、一緒に鎮守八幡宮に祀られている。

また、鎮守八幡宮にはかつて白ヘビが住んでいたと言う話もある。

拝殿の側の楠木の大木に2メートル近い白ヘビが住んでいたそうで、「巳さん」と呼ばれて鎮守八幡宮の守り神として信仰されていたそうだ。

もっとも、私は子供の頃から何度も東寺に行っているが見たことは無くて、もしもいれば観光客やお参りする人も多いので騒動になっていただろう。

しかし、こう言うのは信仰や伝説の中で存在している物でもあるので、信仰として存在している物とするのではないだろうか。