那須与一
東山区にある泉涌寺の参道にある総門の横にあるお寺で、「即成院」(そくじょういん)と言うお寺が「那須の与市さん」の通称で親しまれている。

即成院は、元は正暦2年(991年)に恵心僧都よって伏見に建てられた光明院がはじまりだと言われている。

その後、寛治年間(1087~1094年)に関白・藤原頼通の子で伏見長者とも呼ばれた「橘俊綱」が造った広大な山荘の中に光明院が移されて「伏見寺」となったそうであり、さらに「即成就院」(さくじょうずいん)とも呼ばれるようになったそうだ。

やがて荒廃していったが建久6年(1195年)に、後白河法皇の皇女である宣陽門院と、法皇の寵妃であった高階栄子が後白河法皇を追悼して再建したとされている。

しかし、応仁の乱の兵火などで焼かれたり、秀吉が伏見城を築城のさいの移転などで転々としながら廃寺や合併などにあうが、明治になって現在の泉涌寺の塔頭として落ち着き、昭和になって「即成院」の名に還ったそうだ。

このお寺は「京のポックリ寺」としても知られており、苦しまずにポックリとやすらかな往生を願う老人のお参りも多いそうである、先に紹介した「今熊野」がボケ防止のお寺だったので、同じ泉涌寺の塔頭でボケ防止とポックリ寺があるのも不思議な繋がりである。

鳳凰だろうか、門の上に付けられた鳥のような形が印象深い。

さて、この即成院が「那須の与市さん」と通称されるのは、あの平家物語での弓矢の名手である「那須与一」(なすのよいち)に関わりのあるお寺だからである、「与一」と表記される事が多いが、ここでは「与市」とされているようだ。

与一は通称で、本名は「那須与一宗高」あるいは宗隆だそうだ。

那須与一は下野国(栃木県)那須郡の領主であった那須資隆の子だとされているようだが生没年は不明である。

那須資隆には12もの子供がいたと言われ、与一は11番目に生まれた子供で、10よりも一つ余った、あるいは与えられた意味から名付けられたそうである。

早くから弓の名手として知られていたそうだが、まだ20歳前の若さだったと言われている。

平家が一ノ谷の合戦で敗れて瀬戸内に逃れて、水軍を擁して再起を図っていた。

那須与一は、源義経の求めで平家討伐に向かうのだが、途中の京都で病にかかってしまい、その時に伏見にあった「即成就院」の阿弥陀如来に参拝して病気の回復を祈願したところ、病は癒えて元気になったのでお礼として堂宇を寄進し、阿弥陀如来像を念持仏として小像に刻んで持ち、義経の元に馳せ参じたそうである。

そして、元暦2年(1185年)の讃岐国の屋島での戦になる。

寒さの厳しい2月、屋島へ逃れた平家を追って、義経ら源氏軍は海路を阿波に上陸すると陸路で屋島に迫り、背後から平家を急襲するのだった。

この奇襲に驚いた平家軍は、船に乗って海へ逃げたのだが、源氏軍が案外少数と知って応戦し激しい攻防が繰り返されることになる。

しかし、源氏と平家はいずれも劣らずに両軍は激しく戦ったがなかなか勝負がつかなかった。

やがて夕方近くになり、源氏はひとまず海岸へ集まって休息していた時だった。

ふと見ると、美しく飾りつけた一隻の船が浜辺へ向かって漕ぎ寄せてくるではないか。

船のへさきには高い柱が建てられ、そのてっぺんに赤地に金色で日の丸を描いた立派な扇がくくりつけてある。

そして、その横には美しい女官が立ち

「源氏に弓の名人はおられるか?どなたかこの扇を射ることの出来る方はございませんか」

とでも言うかのようにしきりに手招きして挑発するのだった。

ここで射られないと源氏の名折れである。

「誰か射れる者はいないのか!」

義経の問いかけに、畠山重忠は脚気を理由に辞退し、代わって推された那須与一の兄の那須十郎も負傷していたので、弟の那須与一が射ることになってしまった。

仕損じると自分だけでなく源氏の恥じとなってしまう、与一も辞退したが義経が許さなかったと言う。

義経の命を受けた与一は寒風が激しく吹きつける海上に馬を乗り入れた。

海上では平家が多くの軍船を並べてそのなりゆきを見つめており、また陸では義経をはじめとして源氏の一同が固唾を飲んで見守っている。

扇の的までは、40間余り(約70メートル)もあり、しかも北風が激しく吹いて海に浮かぶ小舟の扇の的は大きく揺れている。

与一は弓に矢をつがえ、弦も折れるかのようにキリキリと引き絞ると、扇の的に狙いを定めて目をつむり心の中で祈った。

「南無八幡大菩薩、日光の権現、那須の温泉大明神、願わくばあの扇の真中射させ給え、これを射損ずるならば、弓を折り自害して生きては那須へ帰りませぬ」

そう念じて目を開くと、今までゆらゆらと揺れていた扇の的がぴたりと止まって見えた。

「今だ!」

与一は息を止めて気持を整えると矢を放った。

ヒュンと風を切る音と供に、矢はみごとに扇の要を射抜ていた。

扇はぱっと空へ舞い上がると、ひらひらと風に舞うように海面に落ちていった。

これを見て、源氏も平家もみなが感心し、平家は船べりを叩き感じ入り、陸の源氏も箙(えびら・矢の入れもの)を叩いてどよめいて与一の腕前を誉め称えた。

その時に平家の船に年老いた武者が現れて、舞を舞い始めた。

義経が、あの者も射よと命じて、与一は心ならずも射てしまう。

平家方は、風流を解さぬ行いと怒り、悪七兵衛影清らが渚に上がると源氏方に攻めあがると乱戦となっていく。

こうして源氏と平家は激しく戦ったが、とうとう平家は負けてしまい、屋島を追われた平家は山口県の壇の浦の悲劇へと滅亡してしていくのである。

那須与一は、この折の功によって武蔵や丹波などの五州にに領地を得たそうである。

そして、朝廷にお礼に来た時に伏見の即成就院にも参篭したそうで、やがて、この伏見に小庵を造って出家したが病死して即成就院に埋葬されたと言われている。

与一は、なぜ地位を捨てて仏門に入ったのか。

平家の滅亡や義経の死など、心に無常を感じる事があったのかも知れない。

静かな療養の生活だったとも言われるが、享年は34歳の若さだったとの伝えもある。

その那須与一の墓と言われる物が即成院に祀られている、伏見の即成就院の頃から移転と供に伝えつづけられていた物らしい。

那須与一の墓は、本堂を抜けて墓地に建てられたお堂の中に安置されていたが、今はお堂はなくなって外に出された形になっている。

墓地からも行けるのだが門が閉められている事が多いので、一度本堂に上がってから、本堂を通り抜けて履物を借りて外の墓地に降りてお墓に向かう事になる。

墓は、大きな笠を持つ茶壷の形をした宝塔のようなりっぱな物である。

しかし、那須与一の墓とされているものは、橘俊綱のものではないかとの説もあるようだ。

病気の平癒に御利益があるとお参りする人が絶えないそうだが、的を射た那須与一にあやかって受験合格の祈願に訪れる学生や親御さんも多いと聞く。

那須与一の伝説も全国的な広がりを持つようだが、源平の争いの中で、弓矢で扇を射る名シーンで名を馳せた英雄でありながら、静かな後年が感慨深い人物でもある。