2011年08月の記事


宝誌和尚立像
京都に不思議な仏像がある。

「宝誌和尚立像」と言う仏像で、顔の部分が左右に割れて、中から別の顔が覗いている不思議な仏像である。

見ようによっては不気味にも感じるが神秘的な仏像でもある。

元は、壬生にある「西往寺」と言うお寺にあったものであるが、現在は京都国立博物館に委託保管されている。


中国の宝誌和尚と言う僧侶を仏像にしたものであるが、どうしてこういう像になったのか、それには宝誌和尚の伝説が関わっている。


昔の5~6世紀頃の中国に「宝誌和尚」と呼ばれる僧侶がいた。

様々な伝説があるのだが、道林寺で禅の修業し巷に現れては僧侶としては奇異ないでたちで闊歩し、一般と同じ飲食で酒肴も口にしたと言う。

また数々の不思議な出来事も起こし民衆の信仰を集めるようになったそうだ。

時の皇帝は、そういう宝誌の姿に不安を覚え、民衆を惑わす者として捕らえて牢獄に閉じ込めた。

しかし、獄中のはずの宝誌和尚が町中や諸寺を巡って予言をしたりし、また三人に分身して同時に各所に現れたりもしたと言う。

やがて国は「梁」と変わり、時の武帝は、宝誌和尚を信奉した。

武帝は、宝誌和尚の尊顔を三人の絵師に命じて描かせようとした。

絵師達は宝誌の元へ行き、姿を描くことを伝えると、宝志は僧服に着替えた。

三人の絵師が、描画の用意を整え、三人そろって筆を入れようとしたところ、宝志が「私には真の姿がある、それを見て描くが良い」と言った。

そして、宝誌は親指の爪を額に当てると、額の皮を下まで切り裂き、その皮を左右に引きひろげた。

そると正面の絵師には宝誌の顔の割かれた皮の下から金色に輝く菩薩の顔が現れたのである。

他の二人の絵師達には、一人の絵師には十一面観音に見え、一人の絵師には聖観音と見えたと言う。

そして、各自が見えたところを写し取り、帝に献上したのであった。

帝は大層驚き、別の使者を派遣して様子を伺ったが、宝志和尚は突如姿を隠したのであった。

人々は、宝志は常人ではなかったのだ、と言い合うようになったそうである。

その時の宝誌和尚の様子を元に作られたのが、この仏像なのだそうだ。

また、この仏像の真意は「人の内面はそれぞれが神仏である」と言う意味も含まれているとも言われている。

私は以前にこの仏像を実際に見た記憶がある。

保管されている京都国立博物館は常設館が立て替え工事中と言う事もあり、なかなかこの仏像を見る機会もないが、ぜひもう一度見たい仏像である。
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紳ちゃん・・・
島田紳助・・・紳ちゃんが暴力団関係者との交流を理由に芸能界を引退するようだ。


↓ニュース記事ーーーーーーーーー


島田紳助、本日で芸能界を引退!涙涙の会見で暴力団との関係明かす 松本人志には事前報告


23日、タレントの島田紳助が吉本興業東京本社にて緊急会見を行い、本日をもって芸能活動引退を発表。その理由を平成17年6月ごろからの2年間、暴力団関係者との間に一定の親密さをうかがわせる携帯メールのやりとりがあったことを吉本興業側が問題視。紳助自身もそれを認めたため、今回、引退の運びとなった。この会見には水谷暢宏よしもとクリエイティブ・エージェンシー代表取締役社長、原田裕弁護士も同席した。

突然の発表だった。緊急で開かれた会見に登場した紳助は神妙な面持ちで「今日をもって引退します」と発言。発覚した暴力団関係者とのメールのやり取りに「十数年前から友人を介して悩みを相談した方が暴力団関係者だった。その人は僕の立場を分かってくれて、会ってはだめだと言ってくれた。だから本当に偶然を含めて4~5回会った程度だった。僕の中ではセーフだと思っていた」と事情を説明。法律に触れる行為ではなく、経済的な利害関係が認められるものではないという調査結果だったが、数多くのテレビ番組でメイン司会者を務める社会的影響力の大きさから、吉本興業側が厳しい判断を下した形となった。

「日曜の夜、24時間テレビのあと吉本興行に呼ばれ、内容に関するメールを見せられた。『芸能界のモラルとしてやってはいけないことなんだ』と言われ理解した。悪いことをしたらちゃんとけじめをつけなくてはいけない。700人いる吉本の後輩に示しをつけるために引退を決意しました」と経緯を説明。

突然の引退劇だったが、唯一ダウンタウンの松本人志には事前に報告をしていたという。「僕が漫才をやめたのはダウンタウンの漫才を見たから。だからあいつにはちゃんと伝えないといけないと思った。そうしたら『やめないでください』ってメールをもらってね」と語ると涙を見せるシーンも。でも「この涙は引退への未練じゃないですよ。僕を慕ってやめないでくださいって言ってくれたことがうれしくてね」と気丈な態度を見せる。

「師と仰ぐ上岡龍太郎さんが55歳で引退されました。そして僕も55歳。なんかの縁ですかね」とさみしそうに語る紳助。先日の24時間テレビ、徳光和夫のゴールを満面の笑みで迎えた姿が印象に残るが、本日限りでその姿をメディアで見ることはなくなった。

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いろいろと批判されたり嫌われたりする人も多かったようだけど、私は好きな部分と嫌な部分と両面あって複雑な心境だよ。

同じ京都出身で、実家も近くて同年代、中学も私が九条中学で彼が八条中学とと言う事もあって親近感もあった。

それに、彼が高校のときとかバイクで仲間で走り回ってたのとか何となく知ってたし、彼の実家も私がよく遊びに行ってた西寺公園の近所だとか、いろいろとあって応援してた時期もあったんだけどね。

KBS京都で深夜のラジオやってた時とかずっと聞いてたなぁ・・・、鈴鹿8耐に参加してる時も応援してたよ。

その後、東京中心に活躍されて成功を喜んだりもしてたんだけど、近年の批判されたりする部分もわからんではなくて、複雑な感じだった。

いろいろと批判もあったけれど、トークと言う部分では天才だったと思うし親分肌で慕ってる人も多かったと思う。

24時間テレビ後の「行列のできる・・」が最後の姿になるのかな。

このまま引退されるのかと思うと、やはり残念で寂しいよ、彼のことだから芸能界以外でも活躍続けられると思うけれど、やはり残念だよ。
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お盆の話
今年のお盆は震災の事もあって各地でいろいろと行われたようだ。

お盆の始まりについて次のような話がある。

お釈迦様の弟子に目連尊者と言う人物がいて、法力も優れた人であった。

その目連にはすでに他界した母親がいたが、目連は母親がどうしてるのか気になって法力を使って冥界を覗いてみた。

すると母親は生前の行いが良くなかったのか餓鬼界と言う飢餓に苦しむ餓鬼の世界にいたのである。

それで目連は母親を哀れに思い、水や食べ物を送ろうとしたが、途中で火となって燃えてしまい届ける事が出来ない。

困った目連はお釈迦様に相談してみたのだった。

するとお釈迦様は「自分の母親だけを救おうとするのではなくて、餓鬼界のすべての者を救おうとすれば母親も救われるだろう」そうおっしゃいました。

そこで目連は多くの修行僧を集めて餓鬼界のすべての者達のために供養の法要を行った。

こうして母親もふくめて餓鬼界にいるすべての者が救われたという。

これが施餓鬼会、つまり盂蘭盆会となり中国経由で日本にも伝わった。

そして祖霊が人々のところに帰ってくるとする民間の信仰と結びついて、お盆の行事となって行ったと言う。

各地での祖霊をお迎えし、お送りするお盆も大切であるが、そう言ったお盆の元々の意味も忘れずにいたいと思う。
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お盆休み覚え書き
今年の夏休みは節電の振り替えがあって11連休だった。

休みが長いけれど、その代わりに秋に土日の振り替え出勤が入るから嫌なんだよね。

そのお休みも今日までで明日の日曜から出勤だよ・・・早くもブルー入ってる。


この夏休みの覚え書き


10日(水)

京の七夕の朝散策

小野篁・紫式部の陵墓参拝

今宮神社

錦小路市場

亀廣永で「したたり」購入

実家


11日(木)

駅前でジーンズ買う

パソコンHD交換残念・・・パーティション変更


12日(金)


あだしの まゆ村(コミュニティの報告)


13日(土)

OBP集まれ地球の仲間たち


14日(日)

今日吉神社

三十三間堂

京都国立博物館「百獣の楽園」


15日(月)

千船 田蓑神社

イオン大日


16日(火)

京都伝説巡り・記事書き込み


そういう感じで、残りは昼間は怖い本の読書、夜は普通の本の読書と読書で過ごしていたかな。

とにかく暑くて外に出るのがしんどい夏でグダグダ過ごしてたよ。

明日から、しかも日曜に出勤だと思うと思い切りブルーだよ。

しかも明日は24時間テレビなのに仕事で募金に行けないのが残念だよ、これまで毎回募金に行ってたし、何とか行きたいんだけどねぇ。
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小野篁と紫式部
お盆休みに京都に出かけたついでに最近はまっている小野篁に久しぶりに会いたくて「紫式部(むらさきしきぶ)と小野篁(おのたかむら)」のお墓にお参りに行っていたのだった。

場所は、京都市北区の堀川通り北大路の堀川通りの西側を少し下がった所で、建物の間に見落としそうな二つの石碑があり「紫式部墓所」「小野篁卿墓」の文字が書かれている。

その入り口から少し入ると、狭い場所に紫式部の墓と小野篁の墓が仲良く並んでいるのだ。

左側の大きい方の墓が紫式部の墳墓で、右側の小さな方の墓が小野篁の墳墓だ。

なぜ、二人の墓が同じ場所に並んであるのかは不明らしいが、14世紀の「河海抄」と言う書物には、すでに記されているらしい。

同じ、京都の千本閻魔堂と言うお寺は、この小野篁が開祖と言われているのだが、ここにも紫式部の供養塔が立っている。

紫式部と小野篁、この二人にどのような関係があるのだろう?

紫式部は、生年や没年には諸説があり、はっきりしないのだが、大体(973年~1014年)と言われているらしいが、小野篁は(802年~852年)と言われているので、紫式部が生まれる100年以上も前には亡くなっているので、二人に直接の関わりは無いことになる。

一説には、紫式部が小野篁に興味を持っていて、影響も受けていたと言う物もあるが、だからと言って、墳墓を隣に作られるのは無理がありそうな気がするし、参議の篁と式部職の紫式部、当時の身分的にもお墓を隣にするのはどうなのだろう?

紫式部は、ご存知のように「源氏物語」の著作があまりにも有名で、他にも歌人としても有名であり、藤原家の系統の出だと言う。

紫式部の名前も、始めは「藤式部」と呼ばれていたらしいが、源氏物語の紫の上にちなんで紫式部と呼ばれるようになったと言う説もあるそうだ。

また、山城守藤原宣孝と結婚し、娘の賢子を出産するが、二年後、夫と死別し、その後、一条天皇の中宮彰子のもとに出仕し、信任を得ていたそうである。

小野篁は、逸話の多い人物で、小野道風や小野小町の祖父であるとの伝説もあるらしい。

優れた学者で歌人でもあり、官人でありながら、遣唐副使に任ぜられたのですが、大使藤原常嗣と争い乗船を拒否し、嵯峨上皇の怒りを受け隠岐に流され、その時に詠んだ歌が百人一首でも有名な「わたの原、八十島かけてこぎ出でぬと、人には告げよあまのつり船」の和歌である。

しかし、二年後には才能を惜しまれて許されて、その後は参議にまでなったそうである。

また、有名な逸話では、あるとき、「無善悪」という落書があったのを嵯峨天皇が篁に「読め」と命じたが、篁は「読むことは読めますが、さしさわりがあるので」と言って読もうとはしなかった。

しかし、天皇の命令で、やむを得ず「悪(さが・嵯峨天皇を指す)無くば善(よ)けん」と解読したため、嵯峨天皇は「このようなことを書けるのは、その方しかおるまい」と決め付け、篁は、自分が犯人でないと主張した。

天皇は、そこで「子子子子子子子子子子子子」と子の字を12個書いて、これを読めと命じると、篁は、「ネコノコノコネコシシノコノコジシ」(猫の子の子猫、獅子の子の子獅子)と読んで、罪から免れたという。

それに、なんと言っても小野篁の伝説では、地獄に生きながら出入りしていたと言うのがあり、昼間は宮中で役人として働き、夜は地獄の閻魔庁で閻魔王の副官として仕えたという話があり、それにちなんだ説話も多く残されている。

京都の六道珍皇寺では、閻魔王の像と篁の像が並んで祀られており、不思議な風評の人物である。

なぜ、紫式部の墳墓と小野篁の墳墓が隣り合わせであるのか、その関係は謎であるが、こういう歴史の謎って、不思議だからこその魅力があると思う。

一説では、紫式部は源氏物語などで男女の愛欲の世界の物語を描いたので、死後にその罪を問われる事になって閻魔様に裁かれそうになったときに、閻魔庁の役員であった小野篁が弁護して救ったと言う話になっている。

二人の陵墓は、昔はかなり荒れていたそうで近年になって整備され綺麗になったようで、本当には、ここには二人は葬られてはいないのかも知れないが、お墓にはどちらもお花と線香が手向けられている。

事実は謎として、浪漫は浪漫として残していきたい気がする。
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お盆に読んでいる本
このお盆休みは長いけれど暑くて外に出るのもうんざりなので部屋で冷房を効かせて読書が一番良いね。

私が、今読んでる本だよ。


「妖術使いの物語」(佐藤至子)

読本や歌舞伎や浄瑠璃、伝説などに出てくる妖しげな術を使う妖術使いたちを、その術ごとにまとめた解説された本で、実在の人物から伝説や架空の人物まで幅広く取り上げてて読み応えもたっぷり。

面白い本だよ。


「怪談和尚の京都怪奇譚」(三木大雲)

最近、怪談話とかで見かける機会も多い、三木大雲と言うお坊さんが書かれた本で実際に体験したり見聞きした話が書かれている。

やはりお坊さんが書かれてるだけにリアルで怖いよ・・・夜には読めないよ。

実際にお祓いとか頼まれる事も多いんだね、京都の話とか匿名にしていても場所がなんとなく判ってしまうのも怖いよ。


「謎解きはディナーのあとで」(東川篤哉)

これは今年の本屋大賞の第1位になった東川篤哉さんの話題作だね、凄い人気で100万部突破してる推理物の小説だね。

女性刑事が実は大富豪のお嬢様で、その執事が鋭い推理力と毒舌の人物と言う取り合わせも面白いね。

お嬢様と執事のやり取りが笑えるけど、執事がお嬢様から話を聞いただけで事件を推理していく安楽椅子探偵物なのが楽しいね。

これなんか映画やドラマ化しやすい素材なので、そういう展開になりそうな気がするよ。


やはり、のんびり読書を楽しんでいるのが一番和む気がするよ。
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佃島のルーツ
佃島と言うと東京の佃島や佃煮を思い浮かばれる人も多いと思うが、実はそのルーツとも言える地は大阪にあるのである。

阪神電車の「千船」駅から降りた土地には「佃」と呼ばれる地名があり、この佃が佃島のルーツになるそうだ。

佃と言う名は、もともとは「作り田」から転化したもので領主直営の農地を意味する言葉だと言う。

江戸時代に、この付近は西成郡佃村と言う地域であったそうで、その時代に、あの徳川家康との関わりが出来たのだそうだ。

天正14年(1586年)のこと、まだ羽柴秀吉が天下を平定しつつあった時代である。

徳川家康は住吉大社に参拝したあとに、兵庫県の多田神社に向かおうとしていた。

しかし、あいにく神崎川に渡し舟が無く困っているところへ、佃村と隣の大和田村の漁民が船を出して家康一行を対岸まで無事に送り届けたのである。

家康は、この事に感謝し、その後は佃村の漁民たちを優遇するようになり、また漁民たちもその後の大阪夏の陣や冬の陣では、戦に使う船や食べ物を調達して協力したと言う。

秀吉が健在であった天正18年(1590年)。

徳川家康は江戸に入府することになり、江戸湾の監視と江戸湾の漁業のために、佃村から三十名余りの漁民を江戸へ移し、江戸湾の干潟に住まわせたのである。

漁民達は干潟を整備し、島を作って、その島を自分たちの故郷の村にちなんで「佃島」と名付けたと言う。

そして、江戸湾の漁業権を得た漁民たちは、江戸城に魚を届けると供に、日本橋で魚を売る事にもなっていく、これが日本橋魚河岸の始まりだそうだ。

また、余った小魚を生醤油で煮込んだのが「佃煮」であり、保存食として重宝されるようになっていくのである。

そういう経緯で、やがて江戸の佃島は、重要かつ有名になっていくのであるが、そのルーツは大阪の佃村なのである。

千船駅から北東の佃町には「田蓑神社」と言う神社があり、その境内には、その地と佃島との関わりを示す「佃漁民ゆかりの地」と言う石碑が建てられており、佃島の由来と関わりが記されている。

また境内社として、家康を祭る東照宮の社もあるのも、この地と徳川家康との関わりを示しているのだろう。

徳川家康を介して、東京の佃島と大阪の佃が繋がっているのも面白いと思う。


ちなみに、大阪の佃町と東京の佃島は交流を深めていると言う。
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五山の送り火
京都でお盆の行事と言えば「五山の送り火」が有名である。

今日が、その五山の送り火の日でもあり、最近いろいろと問題をかもし出していることもあり、少し五山の送り火について書いてみたいと思う。


よく「大文字焼き」と言われるが「大文字の送り火」言うのが正しくて、「大文字」の他にも「左大文字」「妙法」「舟形」「鳥居形」の五つが、京都を囲む五つの山で送り火を焚かれる事から五山の送り火と言うのが正式な呼び名である。

送り火と言われるようにお盆の先祖供養の意味を持つ行事で、お盆に帰ってこられた精霊をお見送りする意味を持つものである。

五山を東から紹介していくと

「大」(右大文字)は東山の如意ヶ嶽にある大文字山。

「妙法」は妙と法の二つの文字で、「妙」は松ヶ崎の西山(万灯籠山)、「法」は松ヶ崎の東山(大黒天山)。

「舟形」は西賀茂の明見山。

「大」(左大文字)は西部にある金閣寺の近くの大北山。

「鳥居形」は北嵯峨鳥居本の水尾山(曼荼羅山)。

の五山であり、五つを全て見えるところは市内南側の高い建物が良いそうであるがなかなか難しいと思う。

昔には五山の他にも「い」(市原野)、「一」(鳴滝)、「竹の先に鈴」(西山)、「蛇」(北嵯峨)、「長刀」(観空寺村)などの送り火もあったが、明治や大正に途絶えて行ったそうだ。

その中でも、「大文字の送り火」と言われるくらいに「大」の送り火が有名である。

五山の送り火それぞれに発祥のいわれがあるようで、その起源も諸説がありはっきりとはしないそうである。

その「大」の字の由来についての伝説が幾つかあるのだが、それを紹介したいと思う。

京都の左京区にある「銀閣寺」は有名な観光名所であるが、その門前の北側に「浄土院」と言うお寺がある、「大文字寺」と通称されているお寺である。

平安初期の話だが、 この大文字山の麓に浄土寺と言うお寺があった。

「説1」浄土寺の御本尊の阿弥陀如来像が光明を発しておられるのを通りがかった弘法大師・空海が見つけて、空海はこの光明を未来に残して人々の極楽往生の機縁にしようと思い立ち、「大」の一字に封じこめて、山の峰に十丈四方の筆跡を残したという。

「説2」その浄土寺が大火に見舞われた事があり、その折に御本尊の阿弥陀如来が山上に飛翔して光明を放ったと言い、この光明を真似て実施していた火を用いる儀式を「弘法大師」が大の字形に改めた。

「説3」室町中期の延徳元年(1489年)に、「足利義政」が近江の合戦で死亡した実子であり将軍でもあった「足利義尚」の冥福を祈るために家臣に命じ始めた言い、「大」の字は山の斜面に白布を添え付けて、その様子を銀閣寺から相国寺の僧侶である横川景三が眺め定めた。

「説4」江戸初期に本阿弥光悦、松花堂昭乗とともに当代の3筆といわれた能書家である「近衛信尹」(このえのぶただ)が創設したそうで、寛文2年(1662年)に刊行された「案内者」に「大文字は三みやく院殿(近衛信尹)の筆画にて」との記述があるそうである。

このように「大」の字、一つの由来に関しても平安時代から江戸時代まで諸説があってはっきりしないのである。

大文字寺と言われる浄土院は、浄土院の前身の浄土寺が天台宗の大寺院だったが、数度の火災や戦火に見舞われた後に文明14年(1482年)に足利義政が東山殿(現在の銀閣寺)を造営するに折に、相国寺の西に移転したそうだ。

跡に残った草堂を泰誉上人が浄土宗に改めて浄土院と名付け再興され、享保17年(1732年)には随誉上人により堂宇を整備されたそうだが現在の伽藍は昭和の再建だと言う。

大文字寺と言われるのも大文字の送り火の世話を行って深く関わっているためだと言う。


その他の送り火についても、その起源を簡単に述べると

「妙法」:「妙」は鎌倉時代末期に日蓮宗の僧・日像が妙の字を書き点火したのが起源ともされ、「法」は近世初期に始まったと伝えられる。

「舟形」:西方寺の開祖である慈覚大師が847年の唐留学の帰路に暴風雨にあったが、南無阿弥陀仏を唱えて無事帰国できたことから、その船を型どって送り火を始めたとも伝えられる。

「左大文字」:前述の1662年刊行の「案内者」にも左大文字の記述はないことから、大文字、妙法、船形の3山より遅れて登場したと考えられ、大の字に一を加えて「天」とした時代もあったそうだ。

「鳥居形」:弘法大師が石仏千体を刻み、その開眼供養を営んだ時に点火されたとも伝えられ、鳥居の形から愛宕神社との関係も考えられてるそうである。

五山の送り火は午後8時に右の「大」の字が点火されてから、「妙法」「舟形」「左大文字」と西に向かって5分おきに点火されていき、最後の「鳥居形」が午後8時20分に点火され、それぞれ約30分の間、燃え続けることになっている。

「大」の字を水を入れた杯に映して飲むと健康になるとも言われているようだが、精霊送りの意味を持つ荘厳な儀式で、京都の三大祭である「葵祭」「祇園祭」「時代祭」に五山の送り火を加えて、京都四大行事と称することもあるようだ。

五山の送り火は、最近は観光行事として注目される事も多いが、本来はお盆のご先祖様をお送りする行事だという事も心に留めてほしいと思う。


追記として、送り火についてあれこれ問題となっているので、実際の送り火の運営について、少し書きたいと思う。

送り火の、実際の運営にあたっているのは、各送り火ごとに保存会があり、昔からそれぞれの地域の人たちで、労力、費用ともその地域の人たちだけの努力で続けられてきたそうだ。

最近になって「大文字五山送り火協賛会」が京都府、京都市、文化財保護財団、観光業者の構成で結成され、行事をバックアップする体制が出来てきたのである。

今では京都市と市民に密着した行事でありすでに書いたように、葵祭、祇園祭、時代祭と並び、四大行事となっており、行事全体が無形民俗登録文化財に指定されていると言う。


さて、五山の送り火がどのようにして点火されるのか、東山如意ヶ嶽の大文字の場合、毎年春先になると大文字山頂の松林を伐採して、送り火に使う薪(まき)が作られる。

この護摩木と呼ばれるその薪は、神聖なもので大切に各家で保管されるのである。

もしこの薪を粗末にあつかったり、送り火以外に使ったら、その家に不幸があると伝えられてもいて、また当夜、自分の担当している火床の燃え方が悪かったり、火の付きがよくないと、やはり家に良くないことが起こるとも考えられているそうだ。

薪は如意ヶ嶽では送り火の当日にケーブルで山にあげられるが、他の四山では人力で上げられていて労力は大変なものであろう。

大文字で使用する薪は600束、松葉100束、麦わら100束が使われるそうだ。

それを大谷石で出来た火床に薪を井桁に組み、その間に松葉を入れ、その廻りを麦わらで囲み火の勢いを強くすると言う。

点火は一軒で二つの火床を担当して、松明(たいまつ)の合図で、一斉に点火される。

当日は地元の消防署員と、京都市からも職員が山に上がり立ち会い、保存会の人たちは火が完全に消えるのを確認してから、山を下りるので山を下りるのは10時以降になるのだそうだ。

このように、一連の行事は夏の暑い中での仕事で、大変な労力を必要としているのである。


また、過去には大文字の点火中止騒ぎもあったのである。

火床修理に少しの補助金しか出さない京都市への不満、残り火の管理責任が問題になった時に送り火を「たき火」あつかいした市消防局、ホテルの屋上などでお金を取って送り火をショー的なイベントとしかとらえていない観光業界などなど、保存会の人たちの感情を逆撫でするような問題などがあり、点火中止騒ぎに成ったことがある。

この問題が新聞で大きく報道されると「大文字の火を消さないで」と市民からは続々と寄付金が寄せられ、あれだけの大行事をほとんど地元負担でしていた事実、また送り火の意義を世間が再認識する事件でもあったと言えるだろう。

こうして、保存会、関係箇所等の努力により五山の送り火は現在まで絶えることなく続けられているのである。


さて、送り火の当日、午前中に大文字は銀閣寺山門前で、左大文字は金閣寺境内で、鳥居形は地元の鳥居本の土産物店等で保存会が、護摩木の志納(300円)を受け付けている。

護摩木には願い事を書いて保存会に託され、その護摩木は送り火として焚かれるので、様々な思いのこもった送り火と言う事になるのであろう。


いろいろと問題が出てしまった今年の五山の送り火であるが、様々な思いの篭った送り火で、ご先祖の精霊が穏やかにお送りできるように祈りたいと思う。
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百獣の楽園
京都の七条にある京都国立博物館で開催されている特別展観「百獣の楽園 美術にすむ動物たち」を見に行ってきたよ。

これは京都国立博物館に所蔵されている名品のなかから、動物や生き物が描かれている物を厳選して展示された特別展である。

古来、人間は様々の物に動物や生き物の姿を描いてきた。

馬形の埴輪があったり、仏画や宗教画、巻物や屏風や襖、文物や着物など、あらゆる物に生き物の姿を描いて来たのである。

動物や昆虫、鳥や魚、それに想像上の幻獣や聖獣などなど、その種類も多岐にわたり、写実的な表現から象徴画のようなものまで様々である。

さらに、雪舟や狩野元信、円山応挙に伊藤若冲、俵屋宗達に尾形光琳、葛飾北斎や本阿弥光悦、それに与謝野蕪村に富岡鉄斎などなど、他にも有名どころの作品がいっぱいで充実してるね。

やはり動物がテーマと言う事で見て周っても作品がそれぞれ楽しいね。

ゆっくりといろいろな作品を見て周れて良かったよ。
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誰が悪いのだろう
京都の五山の送り火に陸前高田の松を使用する件が、二転三転しながらも松から放射性物質が検出されて、結果として使用しないことになった。

今回の出来事について、二度の使用中止と言う事態になり、松の供給先である陸前高田の方々には不快な思いや悔しい思いなどされてる事と思い、私も残念に思う。

二度の使用中止に至った経緯や結果に疑問に思うことも多いので、京都側は検査結果や検出された量、それに対する危険度や燃やした場合の環境や水源、動植物や人間に対する影響などきちんと説明する必要があると思う。

松の皮から検出されて内部からは検出されてないなら、皮だけ剥いて使用できないのかとか思ってしまうよ。

とにかくマスコミの取り上げ方や報道に意図的なものや煽るような物も感じている人も多いからね、謝罪も良いけど、きとんと報告や説明することが必要だと思うよ。

私もいろいろと調べて、経過を買いてられるサイトを見つけたので、↓にリンクを書いておくので、そちらも参照してほしい。

http://www14.atwiki.jp/kyoto-henkouhoudou/pages/1.html


もともとは五山の送り火は、地元の精霊をお盆にお迎えする迎え火に対して、精霊をお送りする送り火の儀式で、本来は地元のお盆の宗教行事である。

送り火で使用される松も、地元の方々が冬に御山に登って松を伐採し、それを乾燥したり加工したりして、夏のお盆の送り火で使用する物で、地元としてはもともと使用する分は用意されていたし、御山の木を使うことにも意味があるように思われるのだが、今回は被災地の鎮魂や慰霊の意味もあって引き受けたような経過があるのではないだろうか。

今になって言っても仕方ない事だけれど、始めの段階で断っていれば良かったのかも知れないが、断ればそれはそれで何か言われたかも知れないし、やはり被災地や犠牲者の事を考えて引き受けられた事で、結果はともかく善意で行われた事だと言う事は判ってほしい。

陸前高田の方のいろいろな思いや怒りや悲しみも理解できるし、放射線が検出された松を使用することに対する危惧や不安を地元の人が持つのも理解できる、また環境への影響への不安なら京都だけでなく琵琶湖を持つ滋賀県へも配慮しないといけないしね。

いろいろと報道されて批判や非難、悪口とかいろいろと言われる京都バッシングのようになっているけれども、結果はともかく、もともとは善意から始まった事で、京都がそこまで悪口を言われないといけないのだろうか。

こういう結果で残念であるが、今後、被災地の事や復興支援に関して善意からでも何かあると避難されるなら、何もしないほうが良いと言う考え方が増えないかと思うけどね。

京都だけが悪いのかな、京都もある意味で犠牲者ではないのかな?

そう思ってしまうのは、私が京都生まれで京都を愛しているからだけだろうか。
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納涼 茂山狂言祭2011 茂山千之丞追善公演
今日は土曜日だけど、ほんとうは振り替え出勤の日だったのだが、私が毎年楽しみにしている京都の大蔵流狂言の茂山家の納涼狂言祭の日なので、有給でお休みにして見に行って来た。

今年は春の「春狂言」をチケットを持っていながら公演日を勘違いして行けなかったと言う大失態で凹んでしまったのと、今回の納涼茂山狂言祭が、昨年の12月に逝去された茂山千之丞さんの追善公演でもあるので、どうしても行きたかったのである。

さて、場所は大阪の大槻能楽堂であり、夏に行われる納涼茂山狂言祭は、リクエスト狂言として昨年から曲目や演者をリクエストされた中から選ばれるのが恒例となっていて、毎年意外性があったりして楽しみでもある。


「納涼茂山狂言祭2011~茂山千之丞追善公演~」


お話:丸石 やすし

昨年までは亡くなられた茂山千之丞さんがお話や解説を担当される事が多かったので、寂しさや感慨が深いね。

丸石やすしさんもお話がうまくてなかなか面白かったよ。

でも、お話が出来る人も多いのが茂山家の深みでもあるね。



○「鍋八撥」(なべやつばち)

目代:茂山七五三

羯鼓売り:茂山宗彦

浅鍋売り:茂山茂

笛:杉市和

後見 :丸石  やすし


所の目代(代官)が新しい市を開くのにさいし、一の店についたものを市の代表ににして免税すると高札を出す。

高札を見て一番乗りした鞨鼓売りは、夜明けまでまだ間があるので一眠りして待つことにした。

そこへ遅れてやって来た浅鍋売りは一番乗りの振りをして鞨鼓売りの側で同じように眠る。

目を覚ました鞨鼓売りは、側に寝ている浅鍋売りに驚き、起こして言い争いになるが、そこへ目代がやってきて仲裁をする。

しかし、双方とも自分が先に着いたと主張して譲らず、お互いに自分が一の店に相応しいと言い争いを退かない。

そこで、目代は何か勝負をして決着をつけるように命じるが・・・



この狂言は始めて見た曲であるが、鞨鼓売りと浅鍋売りが互いに譲らずに争って行くのが楽しい狂言である。

後から来てズルした浅鍋売りがだんだんと不利になり追い詰められて行くのが可笑しい。



○「金藤左衛門」(きんとうざえもん)

金藤左衛門:茂山あきら

女:茂山童司

後見:増田 浩紀


雲の上の金籐左衛門と言う山賊が、通りすがりの女を脅して持ち物の袋を奪い取る。

金籐左衛門が、袋から小袖や帯などを取り出して喜んで油断しているうちに、女が長刀を奪ってしまう。

女は逆に脅して持ち物を取り返しただけでなく、金籐左衛門の小袖まで剥ぎ取ってしまい・・・



この狂言も始めて見る曲である。

始めは恐ろし気な山賊の金藤左衛門が、相手が女だと思って油断して、長刀を取られてから主客逆転で、今度は女に威されて行く様が楽しい狂言だった。




○妖怪狂言「豆腐小僧」

作:京極夏彦 演出:茂山あきら

豆腐小僧:茂山逸平

大名:茂山千五郎

太郎冠者:茂山千三郎

次郎冠者:茂山正邦


化け物なのに臆病で人に怖がられた事がない豆腐小僧が、太郎冠者に出会い、親切な太郎冠者にいろいろと相談してる所で、太郎冠者の主人が人間なのにとても怖がられているのを羨ましく思う。

そこへ、次郎冠者を連れた主人が通りかかったので太郎冠者に勧められて豆腐小僧は脅かそうとするのだが、豆腐小僧は気が弱いのでなかなか怖がらせない。

そのうちに、主人に気づかれてしまい怖がる処か、逆にお腹が空いたので、豆腐小僧の持っている豆腐を食べたいと言い出される始末。

そうこうする内に雨が降ってきたので主人に豆腐小僧の笠と豆腐を渡すと・・・



この狂言は、京極夏彦さんが故・茂山千之丞さんのために書かれた狂言で、2002年の初演いらい茂山千之丞さんの豆腐小僧が羽目役のようになっていて、千之丞さんのイメージが強い狂言である。

この豆腐小僧も京極さんが本として出版されたり、アニメ映画になったりと話題になり、今回のリクエストでも断トツの一位だったそうだ。

そこで、千之丞さんの息子でもある茂山あきらさんが新たに台本を書き直し、豆腐小僧の役を千之丞さんの孫でもある茂山童子さんと甥っ子になる茂山逸平さんと言う若い世代のダブルキャストにして公演されることになり、私が見た今日は茂山逸平さんの豆腐小僧であった。

私は初演の茂山千之丞さんの公演を見ているので、ほぼ10年ぶりくらいで若い茂山逸平さんの豆腐小僧を見たことになる。

千之丞さんののほほんとした味は無くなったかも知れないが、茂山逸平さんの若い豆腐小僧も熱演で良かったと思う。

いろいろな意味で、茂山千之丞さんの追善公演にふさわしい曲だったように思う。


茂山家の頂点である茂山千作様も最近は御高齢もあり出演が減っているし、茂山千之丞さんも逝去され、これからの若い世代の狂言へ変わっていく時を迎えているのかも知れないね。
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羅漢さん
京都の鳥居本にある「愛宕念仏寺」(おたぎねんぶつじ)の羅漢さんたち。

愛宕念仏寺は、もともとは8世紀に京都の東山、六波羅密寺の付近に愛宕寺として創建された古寺であるが平安時代には荒廃しつつあったようだ。

その後も荒廃が続き、大正時代になって現在の鳥居本の場所に移転されたが。なかなか荒廃からは抜けられずにいたが、昭和になって復興のために一般の信者から羅漢像を手作りして奉納してもらうようになってから、ようやく盛り返してきて、始めは500羅漢の予定であったのが、1200羅漢にまで増えたという。

そういう訳で、境内には1200体もの石像の羅漢さんが並べられていて、独特の雰囲気がある。

それぞれが信者の方の手作りの羅漢像なので、一つ一つ個性が合って表情も面白いね。

羅漢さんは正式には阿羅漢と言うそうで、宗派によって意味や解釈は諸説あるようだが、一般的に覚りを得た者、あるいは出家した修行者で最高位や修行の完成者をさすそうだ。

ちなみに、お釈迦様の弟子達も羅漢という事になり、また、十六羅漢や十八羅漢などが描かれる事も多い。


いろいろな表情や仕草の羅漢さんが人間ぽくて良いですな、私はネコを抱いた羅漢さんがお気に入りだよ。

この愛宕念仏寺のすぐ近くには京都でも有名な心霊スポットの清滝トンネルがあるが、羅漢さんたちも鎮めようとされてるのかも知れないね。
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