小野篁と紫式部
お盆休みに京都に出かけたついでに最近はまっている小野篁に久しぶりに会いたくて「紫式部(むらさきしきぶ)と小野篁(おのたかむら)」のお墓にお参りに行っていたのだった。

場所は、京都市北区の堀川通り北大路の堀川通りの西側を少し下がった所で、建物の間に見落としそうな二つの石碑があり「紫式部墓所」「小野篁卿墓」の文字が書かれている。

その入り口から少し入ると、狭い場所に紫式部の墓と小野篁の墓が仲良く並んでいるのだ。

左側の大きい方の墓が紫式部の墳墓で、右側の小さな方の墓が小野篁の墳墓だ。

なぜ、二人の墓が同じ場所に並んであるのかは不明らしいが、14世紀の「河海抄」と言う書物には、すでに記されているらしい。

同じ、京都の千本閻魔堂と言うお寺は、この小野篁が開祖と言われているのだが、ここにも紫式部の供養塔が立っている。

紫式部と小野篁、この二人にどのような関係があるのだろう?

紫式部は、生年や没年には諸説があり、はっきりしないのだが、大体(973年~1014年)と言われているらしいが、小野篁は(802年~852年)と言われているので、紫式部が生まれる100年以上も前には亡くなっているので、二人に直接の関わりは無いことになる。

一説には、紫式部が小野篁に興味を持っていて、影響も受けていたと言う物もあるが、だからと言って、墳墓を隣に作られるのは無理がありそうな気がするし、参議の篁と式部職の紫式部、当時の身分的にもお墓を隣にするのはどうなのだろう?

紫式部は、ご存知のように「源氏物語」の著作があまりにも有名で、他にも歌人としても有名であり、藤原家の系統の出だと言う。

紫式部の名前も、始めは「藤式部」と呼ばれていたらしいが、源氏物語の紫の上にちなんで紫式部と呼ばれるようになったと言う説もあるそうだ。

また、山城守藤原宣孝と結婚し、娘の賢子を出産するが、二年後、夫と死別し、その後、一条天皇の中宮彰子のもとに出仕し、信任を得ていたそうである。

小野篁は、逸話の多い人物で、小野道風や小野小町の祖父であるとの伝説もあるらしい。

優れた学者で歌人でもあり、官人でありながら、遣唐副使に任ぜられたのですが、大使藤原常嗣と争い乗船を拒否し、嵯峨上皇の怒りを受け隠岐に流され、その時に詠んだ歌が百人一首でも有名な「わたの原、八十島かけてこぎ出でぬと、人には告げよあまのつり船」の和歌である。

しかし、二年後には才能を惜しまれて許されて、その後は参議にまでなったそうである。

また、有名な逸話では、あるとき、「無善悪」という落書があったのを嵯峨天皇が篁に「読め」と命じたが、篁は「読むことは読めますが、さしさわりがあるので」と言って読もうとはしなかった。

しかし、天皇の命令で、やむを得ず「悪(さが・嵯峨天皇を指す)無くば善(よ)けん」と解読したため、嵯峨天皇は「このようなことを書けるのは、その方しかおるまい」と決め付け、篁は、自分が犯人でないと主張した。

天皇は、そこで「子子子子子子子子子子子子」と子の字を12個書いて、これを読めと命じると、篁は、「ネコノコノコネコシシノコノコジシ」(猫の子の子猫、獅子の子の子獅子)と読んで、罪から免れたという。

それに、なんと言っても小野篁の伝説では、地獄に生きながら出入りしていたと言うのがあり、昼間は宮中で役人として働き、夜は地獄の閻魔庁で閻魔王の副官として仕えたという話があり、それにちなんだ説話も多く残されている。

京都の六道珍皇寺では、閻魔王の像と篁の像が並んで祀られており、不思議な風評の人物である。

なぜ、紫式部の墳墓と小野篁の墳墓が隣り合わせであるのか、その関係は謎であるが、こういう歴史の謎って、不思議だからこその魅力があると思う。

一説では、紫式部は源氏物語などで男女の愛欲の世界の物語を描いたので、死後にその罪を問われる事になって閻魔様に裁かれそうになったときに、閻魔庁の役員であった小野篁が弁護して救ったと言う話になっている。

二人の陵墓は、昔はかなり荒れていたそうで近年になって整備され綺麗になったようで、本当には、ここには二人は葬られてはいないのかも知れないが、お墓にはどちらもお花と線香が手向けられている。

事実は謎として、浪漫は浪漫として残していきたい気がする。