2011年03月の記事


がんばるよ
私の会社は住宅関係の製品を作っているので、いよいよ被災地の仮設住宅への注文が本格化してきた。

しかも、同業のライバル社の工場が被災して生産不能状態なので、そちらの仕事もうちの会社で引き受ける分もあるそうだ。

普通でも割りといっぱいのところへ仮設住宅の分と他社の分でかなりハードになり、4月から残業はほぼ毎日の予定で休日出勤もありそうで、このGWも後半は出勤になる可能性があるとか。

かなりしんどくなりそうだけど、被災地の人達が少しでも早く仮設住宅に移れる方が良いからね。

いつまで続くかも判らないけど、私は私の出来る事でがんばるよ。

そういう訳で仮設住宅の建設もいろんな所が力を併せて本格化して進んでます、避難所でしんどい思いをされてる方、もう少し待っててくださいね。
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夢見ていよう
今回の東日本大震災で、多くの人が被災されて、多くの大切な物を失われたと思います。

いろいろと辛い事や悲しい事、先が見えない絶望感を感じることもあると思いますが、日本の中で、世界の中で多くの人が皆さんに協力したい気持ちを持っておられるのではないでしょうか。

ほんとに大変な状況だと思いますが、希望を失わずに未来を信じて乗り切れたら良いですね。

みんな一緒に未来を創って行きましょう。





「夢見ていよう」

作詞 広井王子
作曲 田中公平


夢見ていよう きみの未来 見える

大きな夢が いつか未来 ひらく


わかっているよ みんなも がんばってるね いつも

ときどきは めげることも あるけれど


夢見ていよう 未来はきっと

希望にあふれ きみのそばにある

だから ずっと ずっと 夢見ていよう


夢見ていよう 寒い冬が 消えて

春の息吹が すぐそこまで 来てる


素敵な心 忘れず 信じる心 持って

ほがらかに 顔を上げて 歩こうよ


夢見ていよう 未来はきっと

希望にあふれ きみのそばにある

だから ずっと ずっと 夢見ていよう


心にサクラ 咲かせよう

それは夢みること いつも夢をみよう


夢見ていよう 未来はきっと

希望にあふれ きみのそばにある

だから ずっと ずっと 夢見ていよう


夢見ていよう 未来はきっと

希望にあふれ きみのそばにある

だから ずっと ずっと 夢見ていよう


だから ずっと ずっと 夢見ていよう
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復興を信じて・・・
東日本大地震の被害の様子を息を呑むように見続けていて、私も心が重く悲しみに浸っていた。

その時に、心に浮かんでいたのが、さだまさしさんの「防人の詩」と言う歌で、その歌詞に震災の様子が重なって涙してしまった。

でも・・・でもでも、失われる命もあれば生まれる命、甦る命も再生する命も必ずある。

壊れてしまったように見える海も山も街も故郷も、そして人々も・・・すべての命の復興を信じていたいと思う。



「防人の詩」


作詞:作曲 さだまさし


おしえてください  
この世に生きとし生けるものの  
すべての生命に限りがあるのならば  
海は死にますか 山は死にますか  
風はどうですか 空もそうですか  
おしえてください  


私は時折
苦しみについて考えます  
誰もが等しく抱いた悲しみについて  
生きる苦しみと 老いてゆく悲しみと  
病いの苦しみと 死にゆく悲しみと  
現在の自分と  


答えてください  
この世のありとあらゆるものの  
すべての生命に約束があるのなら  
春は死にますか 秋は死にますか  
夏が去る様に 冬が来る様に  
みんな逝くのですか  


わずかな生命の  
きらめきを信じていいですか  
言葉で見えない望みといったものを  
去る人があれば 来る人もあって  
欠けてゆく月も やがて満ちて来る  
なりわいの中で  


おしえてください  
この世に生きとし生けるものの  
すべての生命に限りがあるのならば  
海は死にますか 山は死にますか  
春は死にますか 秋は死にますか  
愛は死にますか 心は死にますか  
私の大切な故郷もみんな  
逝ってしまいますか  
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人間だけじゃない
今回の東北大地震で多くの人が被災されたけれど、人間だけじゃなく多くのペットや動物も被災したのだと思う。

突然の地震と津波で犠牲になったのも多かっただろうし、飼い主の方も逃がしたり助けたりする間もなかったんだろうね。

無事に助かったペット達も避難所に連れていけないのも多いだろうし、人間が食べる物さえ少ないのにペットまで回らなかったりして、泣く泣く放されたりした飼い主の方も多いのではないだろうか。

無事に逃れたペット達は飼い主や家を探したりしてるのかな。

ある雑誌で読んだ話では、老婦人が大切に飼っていた体の弱った老犬と一緒に家で津波にあって水が溢れてきて、老婦人は老犬を助けようと頭に乗せて守ってたのだけど、水は首まで増えて寒さで体が震えてつい老犬を離してしまい、老犬は水に呑まれた。

必死で探して拾い上げたけど、老犬は弱ってて寒さで震えてそのまま息を引き取ったそうだ。

家族同然の犬だったので、どうして自分だけ助かって犬を助けてやれなかったのだろうと後悔でいっぱいだと言う。

ほんとうに家族としてペットを大切にされてる方も多いし、こういう悲しみに沈んでられる方も多いのではないだろうか。

離れ離れになってしまったペットと飼い主の方が、いつか出会えてまた一緒に暮らせる日が来ると良いのにな。
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新選組
私は、もともと新選組が大好きでファンであった。

特に、沖田総司さんと山南敬介さんが好きなんだよね。

最近、いろいろと新選組関連の本やコミックとか読む機会が多かったのもあって久しぶりに山南さんのお墓参りに行きたくなって京都の壬生まで出かけてきた。

初めに壬生をぶらぶらしながら壬生寺に出かけて、境内にある壬生塚の新選組隊士のお墓をお参りする。

ここには新撰組の歌碑や近藤勇さんの像、新選組隊士慰霊碑などの他に芹沢鴨さんと平山五郎さん等のお墓、それに河合耆三郎さんの墓や他の新選組初期の隊士のお墓がある。

その後、山南さんのお墓がある光縁寺に向かう。

この光縁寺の門前近くには当時は新選組の馬小屋があり門前を新選組隊士が通る事も多かったそうだ。

その中で、山南さんの家紋とお寺の寺紋が同じだった事もあり、山南さんと御住職が親交ができたようで、切腹した隊士等の埋葬がされるようになり、その後に山南さん本人も・・・

そう言えば山南さんは仙台の人だったよな・・この大震災での仙台の惨状に胸を痛めてられるだろうか。

また新選組隊士のお墓から少し離れて「沖田氏縁者」と言う女性のお墓がある。

沖田さんの恋人との説もあるが真実は不明、いろいろと想像できますな。

久しぶりに新選組に関連の史跡を歩いたり、お墓をお参りしいたりして、何か気持ちが落ち着いたような気がするよ。
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この現実・・・
辰巳琢郎「子どもの餓死、死体の山…」石巻市の救援が行き届かない現状を代弁

http://ameblo.jp/tatsumitakuro/entry-10831822328.html


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ニュース記事から・・・



俳優の辰巳琢郎が、東日本大地震で被災した宮城県石巻市の友人が訴えた命のメッセージを自身のオフィシャルブログに掲載し、いまだ救援が行き届かない被災地の現状を代弁した。

辰巳は15日に「地獄…」と題したブログで、安否を心配していた石巻市の友人と衛星電話で会話したとつづり、被災地の実情を多くの人に伝えてほしいと頼まれた。

そして、「死体がゴロゴロなんですから。避難所にいるのに、食糧がなく、子どもが餓死してるんですよ」とメディアでは大きく取り上げられていない現状を記している。

この衝撃的な訴えを公開した辰巳だが、「友人のいる避難所に救いの手を…」と訴えるためだけにつづったのではない、間違えないでほしいと18日に更新したブログで語っている。

辰巳がほかにも伝えたかったメッセージは、テレビで報道される内容の表面だけを見るのではなく、奥にあるものを考えるということ。

「被災地のこれからのことを想像してください。長い長い支援が必要でしょうから、この出来事をしっかり心に刻みつけて欲しい」と辰巳は訴えている。


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報道されてるような避難所でも、おにぎり半分とか聞きますもんね、手の届かない場所で避難されてる方々では、我々の想像を絶する現状なんだろうと思います。

食料も水も暖房も衣服も医薬品も、電気もガスも何も届かない場所もあるのだろうな。

政府が、本気でそういう場所を救いたいなら、何とかできる方法はあるのではないでしょうか?

原発事故も大切ですが、生死に関わる事態になってて一刻を争う人や所も多いと思います。

ええかっこしたいパフォーマンスよりも、一つでも命を救う方法を考えてください。

ほんとに・・・ほんとにお願いします。
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一人じゃないよ
「誰かどこかで」

☆これは、「Yes,I Can」と言う本にある、作者不明の詩を訳された物です。


いま、この瞬間・・・

誰かが、あなたのことを考えている

誰かが、あなたをとても誇りに思っている

誰かが、あなたの強さに感心している

誰かが、あなたの成功を祝っている


誰かが、あなたの幸せを願っている

誰かが、あなたの気持ちを大事にしている

誰かが、あなたを信頼している

誰かが、あなたから信じてもらう必要がある


誰かが、あなたのことを気遣っている

誰かが、あなたが泣くために肩を貸したがっている

誰かが、あなたが困っていないことを願っている

誰かが、あなたを守りたがっている

誰かが、あなたのためなら何でもしたいと思っている

誰かが、あなたのことを神に感謝している


誰かが、あなたの支援を必要としている

誰かが、あなたの支援に感謝している

誰かが、あなたの助言や指導を求めている

誰かが、あなたに許してもらいたいと願っている

誰かが、あなたの許しを感謝している

誰かが、あなたのおかげで生きている


誰かが、あなたを愛してる

誰かが、あなたのことばかり考えている

誰かが、あなたを心配していることを伝えたがっている

誰かが、あなたがいなくて寂しがっている

誰かが、あなたに会いたくてたまらなく思っている

誰かが、あなたと一緒にいたがっている

誰かが、あなたのために時間を止めたいと思っている

誰かが、あなたの手を握りたいと思っている

誰かが、あなたを両腕で抱きたいと思っている

誰かが、あなたに両腕で抱かれたいと思っている


誰かが、あなたに贈り物をしたいと思っている

誰かが、あなた本人が贈り物だと思っている

誰かが、あなたのことを考え微笑んでいる

誰かが、あなたと一緒に笑いたがっている

誰かが、あなたと思い切り遊びたいと思っている

誰かが、あなたと夢を分かち合いたいと思っている

誰かが、あなたのことを考えて徹夜してしまった


誰かが、あなたに見つけられたいと思っている

誰かが、あなたが気づいてくれたらと願っている

誰かが、あなたの友達になりたがっている

誰かが、あなたと話したがっている

誰かが、あなたのことをもっと知りたがっている


誰かが、あなたが友達であることを喜んでいる

誰かが、あなたが与えてくれる気持ちを気に入っている

誰かが、歌を聴いてあなたを思い出している

誰かが、あなたの友情と愛を神に感謝している


誰かが、これを読んで泣くだろう

誰かが、あなたからこの「言葉」をもらう必要がある
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関西でも
昨日、あちこちのお店を回ってみました。

関西でも、スーパーや電気店やコンビニで単一乾電池やラジオ、懐中電灯などが品切れで入手困難になっています。

それらが被災地に送られてることを信じたいです。


被災地では、地震も続いてるし、停電だし、交通もマヒしてるし、食料品を含めていろんな物が品切れで大変ですよね。

おまけに原発事故での被爆の恐怖・・・

少しずつでも救援の手は被災地に向かっています。

何とかみんなでがんばって乗り切っていきましょう。

少しでも早く救援と復旧が進む事を祈っております。
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影響
うちの会社も仙台営業所は状況が連絡取れず。

鹿島工場と埼玉工場が影響を受けて稼働不能だそうだ。

その分、こちらの工場への影響もでてくると思われる。

うちは住宅機器関係のメーカーなので、復興が進んで仮設住宅の建設になればいろいろと協力していく事になるでしょう。

うちの工場からも昨日に支援物資を積んだトラックが出発していきました。

現在は個人でできることは義援金くらいしかないので、私も協力して行こうと思います。

みんなで力を合わせて少しずつでも救助と復興が進んでいきますように。

がんばれ東日本、がんばれ日本!

力を合わせてがんばりましょう。
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ヤシマ作戦
http://news.biglobe.ne.jp/domestic/0312/jc_110312_3186139045.html

まだまだライフラインの復旧には時間がかかりそうですし、特に電力が復旧しないと不安や不自由もありますし、情報も入らないで困る事も多いと思います。

医療関係や復旧関係にも影響があるかも知れないですね。

東日本だけの災害ではなく、日本国の全体での災害だと思いますし、出来る事から協力していけたらと思います。

こちらの電力を供給できれば良いのにって思います。

みんなで、出来る範囲でも良いから節電に協力できるように呼びかけたいと思います。
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祈り・・・
昨日の東日本大地震、とてつもない大きな被害になって言葉もないくらいです。

テレビ画面に映し出させる被害の様子に唖然として沈痛な思いに沈みます。

私自身は阪神大震災を経験してますが、今回の地震では大きな津波で家や車や船などあらゆるものが流されて街や都市が何もなくなってしまってるくらいに壊滅的な状況の所も多いようですね。

多くの方が犠牲になられて、まだまだ仔細が判るたびに被害が広がると思うと胸が痛みますし、無事に避難された方も家財をすべてなくされて絶望感やショックを受けてられる事と思います。

また救助を待ってられる方々や被災された方々も寒さが厳しくて、電気や水も止まっているようで大変ですよね。

友達や知り合いの方とか連絡の取れない方がご無事なのか心配です。


とにかく、地震や津波が早く治まって一刻も早く救助や復旧が進んで、一人でも多くの方が救出されることを祈るばかりです。


被害に合われた方々に、深く深くお見舞い申し上げます。
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飛梅伝説
京都の梅にまつわる話として「軒端の梅」と「鶯宿梅」と紹介してきたが、今回は最後の締めとして「飛梅伝説」の話をしたいと思う。


京都市の下京区、西洞院高辻の菅大臣町に「菅大臣神社」と言う「菅原道真」に所縁の神社がある。

この地は約1000年前の菅原道真の邸宅地と言われ、「紅梅殿」や「白梅殿」、それに「菅家廊下」(かんけろうか)といわれた学問所の跡だとされている。

また、菅原道真誕生の地ともつたえられ境内には産湯に使ったという井戸が保存されてもいるそうだ。

現在では、それほど神社の境内は広くはないが、当時の邸宅の広さは、仏光寺通を中心に南北二町、東西一町もあったようである。

菅大臣神社の創立は、道真没後すぐというから平安時代であることは確かだが年代は不詳だそうだ。

その後、度々の兵火で鎌倉期には南北の両社に別れ、南社(菅大臣神社)を「白梅殿社」と称し、北社を「紅梅殿社」と呼んでいたが次第に衰退していった。

応仁の乱(1467年)後の慶長19年(1614年)に菅家ゆかりの「曼殊院宮良恕法親王」により再興されたそうだ。

その後も天明の大火(1788年)や禁門の変(1864年)などでも再度焼失しているが、その都度再興されて現在に至っている。

現在の本殿は、天保6年(1835年)造立された「下鴨神社本殿」を、明治2年(1869年)に移築したものだそうで、幣殿と合わせて八棟造り、銅巻柿葺の豪華な建築となっている。


菅大臣神社の北門から仏光寺通に出ると「天満宮降誕の地」の石碑が鳥居の横にあり、道を挟んだ向かいに「菅家邸址」の石碑があり、また小さい字で「紅梅殿」とも書いてある。

その「菅家邸址」の石碑から細い路地道を北に行くと、「紅梅殿」の額を掲げた鳥居と小さな祠がある。

これは菅原道真の父である「菅原是善」(すがわらこれよし)を祀る「北菅大臣神社」だそうである。

この辺りには、かつて私塾の「菅家廊下」や道真の書斎があったところで、後に紅梅殿と呼ばれるようになった重要な場所でもあるが、現在は民家と民家の間に挟まれた小さな祠と鳥居のみとなってしまったようだ。

ちなみに、菅原道真の誕生の地としている神社は、この菅大臣神社の他に上京区の「菅原院天満宮神社」と南区の「吉祥院天満宮」があり、三つの社がそれぞれに生誕地を名乗っているのは興味深い。


さて、この菅大臣神社の境内には菅原道真にちなんで梅の木が何本も植えられているが、本殿前の鳥居の横に「飛梅」と呼ばれる梅の木が植えられている。

この飛梅の伝説こそ、菅原道真と梅の花を結びつけた物語である。

延喜元年(901年)、「菅原道真」は右大臣の地位にあったが「藤原時平」の讒言により大宰府(福岡県)の大宰権帥(だざいごんのそち)に左遷される事になる。

いよいよ故郷である都を離れる日、道真は幼い頃より親しんできた紅梅殿の梅を愛でると
 
~東風吹かば、匂ひおこせよ梅の花、あるじなしとて春なわすれそ~

と詠いかけたのだった。

そして悲しみのうちに都を離れ、大宰府に旅立って行ったのだった。

一方、残された梅の花は、遠くに旅立ったあるじ(道真)を慕い、やがて道真が太宰府に着くと、一夜のうちに大宰府の道真の元へ飛んで行ったと言われている。

これが「飛梅」と呼ばれる伝説であり、この菅大臣神社の地が、梅を愛でて歌を詠んだ地であるそうである。

その伝説にもとずいて、現在も飛梅の木があり、毎年美しい梅の花を咲かせているのだそうだ。

また、太宰府天満宮にも、飛んできたと言われる「飛梅」の木が植えられているそうだ。

この飛梅伝説が広がり、菅原道真を祭る天満宮には梅の花は欠かせないものとなっていったのだろう。
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鶯宿梅
昨日の軒端の梅の話に続いて、今日は以前に取材した京都の梅にまつわる話を一つ紹介したい。

京都御所の北方にある相国寺は多くの塔頭を持つ大きなお寺だが、その中に「林光院」と言うお寺がある。

その林光院の境内にある「鶯宿梅」(おうしゅくばい)と言う梅の木にも伝説が残されている。


鶯宿梅は、端唄で「わたしゃ鶯、主は梅、やがて身まま気ままになるならば、サァ、鶯宿梅じゃないかいな・・・」と歌われたりしている梅の木だ。

むかし、村上天皇の御代の事、平安時代の初期の頃で和歌とかが盛んになった時期でもある。

ある年に春を前にして内裏にあった梅の木がとつぜん枯れてしまった、毎年のように鶯が遊びに来て声を聞かせるので村上天皇もお気に入りの梅の木でだった。

このままでは、楽しみにしていた鶯の声も聞かれない。

そこで、村上天皇は勅命で代わりの梅の木を探すように命じたのだった。


しかし、内裏に植える梅の木であるのでどれでも良いというわけにもいかず、なかなか、これといった梅の木は見つからない、天皇からは「まだか」と急かせれるようになるし使いの者も焦るようになってきた。

しばらくして、西の京の辺りのある家の庭にすばらしい梅の木があるのを見つけて、その家の女主人に訳を話して勅命だからと梅の木を譲るように話した。

その女主人も、これまでに大切に育ててきた梅の木である、簡単に譲りたくはないだろうが天皇の思し召しならいかんともしがたい、また使いの者もようやく見つけた梅の木であるので強引にでも持っていきたかったのだろう。

女主人も心ならずも承諾するしかなく、梅の木は内裏に運んで植え替えられることになった。


村上天皇は喜んで運ばれてきた梅の木を見に行って、見事な梅の銘木に感心していたが、ふと気づくと梅の木に短冊がつけてあり一首の和歌が書いてあるのを見つけたのだった。

~勅ならばいともかしこし鶯の、宿はと問はばいかが答えん~

(恐れ多くも天皇のご命令ですから、私はこの梅を献上いたしますが、この梅を住処とする鴬がまた今年も飛んできて『私のお家はどこ?』と聞いてきたら、私は何と答えればよいのでしょう)

村上天皇は、女主人が大切に育てていた梅の木をむりやり持ってきたのだと思うと自分の我侭を恥じ入り、梅の木を元の女主人の元へさっそく返させることにした。

そして、それにしても、梅の木に掛けてあった和歌は見事な歌だと思い、女主人の身元を探らせると、それもそのはずで紀貫之の娘の紀内侍だったのだった。

それいらい、この梅の木は「鶯宿梅」(おうしゅくばい)と名付けられたそうである。


その後、時を経て紀内侍の屋敷跡に林光院が建てられて梅の木も残っていたのだが、林光院が相国寺の塔頭として移転したのに伴って梅の木も植え替えられて今に至っている。

林光院の鶯宿梅は、あいにくと拝観できなかったので、写真の梅の木は以前に梅宮大社にあった「鶯宿梅」を撮って来たものである。

今では鶯宿梅の梅の木も、他にもいろいろと植えられている所もあるそうで梅宮大社や北野天満宮とかにもあるようだ。

こうして、千年を越える時を経た梅の木が、今も愛されて植え継がれているのは素敵な事だと思う。
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軒端の梅
今日は久しぶりに京都の「東北院」に「軒端の梅」を見に行ってきた。

京都の左京区浄土寺真如町、真如堂の前の道を北のほうに歩き、突き当りの道を西の方に少し行くと「東北院」と言う小さなお寺がある。

この東北院は、かつて関白の藤原道長の「法成寺」の東北のいちにあるから「東北院」と名付けられたとか言う、一条天皇の中宮で上東門院こと藤原彰子の住まいだったそうだ。

また、このお寺のお堂には藤原彰子に仕えていた「和泉式部」も住んでいたと伝えられている。

和泉式部と言えば、いろいろな伝説が残っているが、、和泉守橘道貞や藤原保昌などと結婚し、冷泉院の皇子為尊・敦道の寵愛を受けるなど、様々な愛に生きた話が残されている。

また、娘の小式部内侍も百人一首に歌を残すほどの才女でもあった。

その式部が残したと梅の木と言われているのが「軒端の梅」であり、とても愛して大切にしていたと言われている。

軒端の梅と言われる梅の木は他にも「清涼寺」などにもあるようだが、謡曲の「東北」に歌われているのは、この東北院の梅の木だそうだ。


謡曲の「東北」によると、和泉式部が世を去って何年かが過ぎた時、一人の旅の僧がこの東北院を訪れた。

僧は、旅の途中で和泉式部を懐かしく思い、式部がの暮らした「東北院」を訪ねて、彼女が愛した軒端の梅をぜひ見たいと思ってここまで来たのだった。

僧は、式部を偲んで読経をしていると、いつしか夜になり辺りが暗闇に包まれると、どこからともなく式部の亡霊が現れた。

僧は目の前に式部が現れて驚いたが、式部の姿は生前と変わらぬ美しさで、黒髪は豊かで口の紅は露を含んで濡れたように艶やかだ。

式部の霊は僧に向かって、若き日の日々をこまごまと語って偲び、僧はただ懐かしく黙って頷いて聞いているだけだったそうだ。

今でも、軒端の梅は春になると白く美しい梅の花を咲かせ続けている。


おまけに、娘の小式部内侍(こしきぶのないし)の伝説も一つ。

彼女も母親の才能を受けついたのか優れた歌人でもあったようで、少女の頃から和歌を詠んだりしていた。

これは、母の和泉式部が夫と共に丹後に赴いていた頃のお話だが、宮中で歌会があり、小式部内侍も歌人に選ばれて出席していた。

当時、若い小式部内侍が優れた歌を詠むのはきっと母親の和泉式部がこっそり歌を教えているのだろうと陰口をたたく者もいたようで、その中の一人、中納言定頼が宮中の局にやってきて小式部内侍が歌を考えているのを見てこう言った。

「歌はどうなさいましたか、お母さんに代作してもらために、丹後に人を遣わしたのでしょう。早く遣いが帰ってこないと歌が出来ないので心配でしょうね」

など皮肉に言ったのを聞いて、小式部内侍が即座に歌を詠んだのが百人一首にも入っている、あの歌だった。

「大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみもみず 天の橋立」

(大江山を越えて行き、生野を通って行く道が遠いので、まだ丹後の天の橋立は踏んでみたこともなく、丹後の母からの文も見ていません)

このように、即座に反撃の歌を詠んだ小式部内侍に定頼は返す歌も詠まずその場を逃げ出したとか。

小式部内侍の利発さを物語る逸話である。



久しぶりに訪れた東北院で、いにしえの物語を伝える梅の木に触れて素敵な時間を過ごせたよ。
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雛祭り
三月三日は桃の節句で女の子の成長を祈る節句である。

元来は三月初めの巳の日に水辺で禊をして不浄を祓う「上巳」(じょうし)と言う中国の行事であったと言う。

この行事が日本に伝わり、平安時代には和紙で形代(かたしろ)を作り、その形代で身体をなでて、それに穢れを移して川に流すようになったそうだ。

やがて、貴族の子女が人形を愛でる「ひいな遊び」と合わさるなどで発展し、女の子の節句の「雛祭り」へとなっていった。

そして、現在のように桃の節句が三月三日になり、雛人形が毎年お飾りできるものとして豪華になっていったのは江戸時代だと言われているが、それでも皇族や貴族の子女が中心であったと言う。

その後、江戸時代の中期くらいから武家や富裕な商家や町人や農民の間に雛人形を飾る風習が広がったと言う。

雛人形は、京都ではほんらい向かって右が男雛で、向かって左が女雛であり、これは陰陽道の向かって右が陽、左が陰となるところから来ているとも言われ、御所の紫宸殿を模した形だとも言われている。

近年は、関東では向かって左が男雛、右が女雛が多くなっているが、これは昭和天皇の即位式の写真を参考に東京の人形業界が並べ替えたからで、本来は先に書いたように、京都のように右が男雛、左が女雛と言う皇室の伝統に沿った並び方なのだと言う。

また雛人形でもいろいろな種類があり、時代とともに変化してきているのが面白い。

江戸時代に江戸で完成した段飾りは、今の雛人形の主流の飾り方になってしまったが、関西では御殿飾りとして最上段に御殿をしつらえたり、おくどさんを飾ったりしていたそうだが、現在ではほとんど見られなくなったようだ。

ちなみに、雛人形を出したままにしておくと嫁に行き遅れるというのは根拠もない俗信であるが、始めに書いたように雛人形の本来の姿は厄を祓う身代わりであることから、厄の移したものをいつまでも放置しておくのはよくないから早くしまいなさいと言う意味が含まれているのかも知れない。

また雛祭りに欠かせない食べ物は「菱餅」(ひしもち)で、雛人形とともに飾られる事が多い。

菱餅は基本的に赤・白・緑の3色のものが多いが、地方によっては黄色などを加えたりして5色、7色になっているところもあると言う。

その菱餅であるが赤・白・緑の餅を菱形に切って重ねてつくられるが、今の形になったのは江戸時代からであるそうだ。

菱餅の三色であるが、赤い餅は先祖を尊び、厄を祓い、解毒作用のある「山梔子」(サンシシ・くちなしの果実)で赤味をつけ健康を祝うためであり、また魔除けの力を持つ桃の花をあらわしている。

白い餅は菱の実を入れ、血圧低下の効果をえて、清浄を表し、残雪を模している。

緑の草餅は厄除けの効果もあり、また増血効果がある「蓬」(よもぎ)を使っており、春先に芽吹く蓬の新芽によって穢れを祓う意味がある。

いろいろと書いた来たが、そういう本来の意味合いはともかく、女の子にとって雛祭りはそれぞれに特別の思いもあり、また楽しみなお祭りでもあるのだろう。
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