2011 03/07 18:57
Category : 日記
京都の梅にまつわる話として「軒端の梅」と「鶯宿梅」と紹介してきたが、今回は最後の締めとして「飛梅伝説」の話をしたいと思う。
京都市の下京区、西洞院高辻の菅大臣町に「菅大臣神社」と言う「菅原道真」に所縁の神社がある。
この地は約1000年前の菅原道真の邸宅地と言われ、「紅梅殿」や「白梅殿」、それに「菅家廊下」(かんけろうか)といわれた学問所の跡だとされている。
また、菅原道真誕生の地ともつたえられ境内には産湯に使ったという井戸が保存されてもいるそうだ。
現在では、それほど神社の境内は広くはないが、当時の邸宅の広さは、仏光寺通を中心に南北二町、東西一町もあったようである。
菅大臣神社の創立は、道真没後すぐというから平安時代であることは確かだが年代は不詳だそうだ。
その後、度々の兵火で鎌倉期には南北の両社に別れ、南社(菅大臣神社)を「白梅殿社」と称し、北社を「紅梅殿社」と呼んでいたが次第に衰退していった。
応仁の乱(1467年)後の慶長19年(1614年)に菅家ゆかりの「曼殊院宮良恕法親王」により再興されたそうだ。
その後も天明の大火(1788年)や禁門の変(1864年)などでも再度焼失しているが、その都度再興されて現在に至っている。
現在の本殿は、天保6年(1835年)造立された「下鴨神社本殿」を、明治2年(1869年)に移築したものだそうで、幣殿と合わせて八棟造り、銅巻柿葺の豪華な建築となっている。
菅大臣神社の北門から仏光寺通に出ると「天満宮降誕の地」の石碑が鳥居の横にあり、道を挟んだ向かいに「菅家邸址」の石碑があり、また小さい字で「紅梅殿」とも書いてある。
その「菅家邸址」の石碑から細い路地道を北に行くと、「紅梅殿」の額を掲げた鳥居と小さな祠がある。
これは菅原道真の父である「菅原是善」(すがわらこれよし)を祀る「北菅大臣神社」だそうである。
この辺りには、かつて私塾の「菅家廊下」や道真の書斎があったところで、後に紅梅殿と呼ばれるようになった重要な場所でもあるが、現在は民家と民家の間に挟まれた小さな祠と鳥居のみとなってしまったようだ。
ちなみに、菅原道真の誕生の地としている神社は、この菅大臣神社の他に上京区の「菅原院天満宮神社」と南区の「吉祥院天満宮」があり、三つの社がそれぞれに生誕地を名乗っているのは興味深い。
さて、この菅大臣神社の境内には菅原道真にちなんで梅の木が何本も植えられているが、本殿前の鳥居の横に「飛梅」と呼ばれる梅の木が植えられている。
この飛梅の伝説こそ、菅原道真と梅の花を結びつけた物語である。
延喜元年(901年)、「菅原道真」は右大臣の地位にあったが「藤原時平」の讒言により大宰府(福岡県)の大宰権帥(だざいごんのそち)に左遷される事になる。
いよいよ故郷である都を離れる日、道真は幼い頃より親しんできた紅梅殿の梅を愛でると
~東風吹かば、匂ひおこせよ梅の花、あるじなしとて春なわすれそ~
と詠いかけたのだった。
そして悲しみのうちに都を離れ、大宰府に旅立って行ったのだった。
一方、残された梅の花は、遠くに旅立ったあるじ(道真)を慕い、やがて道真が太宰府に着くと、一夜のうちに大宰府の道真の元へ飛んで行ったと言われている。
これが「飛梅」と呼ばれる伝説であり、この菅大臣神社の地が、梅を愛でて歌を詠んだ地であるそうである。
その伝説にもとずいて、現在も飛梅の木があり、毎年美しい梅の花を咲かせているのだそうだ。
また、太宰府天満宮にも、飛んできたと言われる「飛梅」の木が植えられているそうだ。
この飛梅伝説が広がり、菅原道真を祭る天満宮には梅の花は欠かせないものとなっていったのだろう。
京都市の下京区、西洞院高辻の菅大臣町に「菅大臣神社」と言う「菅原道真」に所縁の神社がある。
この地は約1000年前の菅原道真の邸宅地と言われ、「紅梅殿」や「白梅殿」、それに「菅家廊下」(かんけろうか)といわれた学問所の跡だとされている。
また、菅原道真誕生の地ともつたえられ境内には産湯に使ったという井戸が保存されてもいるそうだ。
現在では、それほど神社の境内は広くはないが、当時の邸宅の広さは、仏光寺通を中心に南北二町、東西一町もあったようである。
菅大臣神社の創立は、道真没後すぐというから平安時代であることは確かだが年代は不詳だそうだ。
その後、度々の兵火で鎌倉期には南北の両社に別れ、南社(菅大臣神社)を「白梅殿社」と称し、北社を「紅梅殿社」と呼んでいたが次第に衰退していった。
応仁の乱(1467年)後の慶長19年(1614年)に菅家ゆかりの「曼殊院宮良恕法親王」により再興されたそうだ。
その後も天明の大火(1788年)や禁門の変(1864年)などでも再度焼失しているが、その都度再興されて現在に至っている。
現在の本殿は、天保6年(1835年)造立された「下鴨神社本殿」を、明治2年(1869年)に移築したものだそうで、幣殿と合わせて八棟造り、銅巻柿葺の豪華な建築となっている。
菅大臣神社の北門から仏光寺通に出ると「天満宮降誕の地」の石碑が鳥居の横にあり、道を挟んだ向かいに「菅家邸址」の石碑があり、また小さい字で「紅梅殿」とも書いてある。
その「菅家邸址」の石碑から細い路地道を北に行くと、「紅梅殿」の額を掲げた鳥居と小さな祠がある。
これは菅原道真の父である「菅原是善」(すがわらこれよし)を祀る「北菅大臣神社」だそうである。
この辺りには、かつて私塾の「菅家廊下」や道真の書斎があったところで、後に紅梅殿と呼ばれるようになった重要な場所でもあるが、現在は民家と民家の間に挟まれた小さな祠と鳥居のみとなってしまったようだ。
ちなみに、菅原道真の誕生の地としている神社は、この菅大臣神社の他に上京区の「菅原院天満宮神社」と南区の「吉祥院天満宮」があり、三つの社がそれぞれに生誕地を名乗っているのは興味深い。
さて、この菅大臣神社の境内には菅原道真にちなんで梅の木が何本も植えられているが、本殿前の鳥居の横に「飛梅」と呼ばれる梅の木が植えられている。
この飛梅の伝説こそ、菅原道真と梅の花を結びつけた物語である。
延喜元年(901年)、「菅原道真」は右大臣の地位にあったが「藤原時平」の讒言により大宰府(福岡県)の大宰権帥(だざいごんのそち)に左遷される事になる。
いよいよ故郷である都を離れる日、道真は幼い頃より親しんできた紅梅殿の梅を愛でると
~東風吹かば、匂ひおこせよ梅の花、あるじなしとて春なわすれそ~
と詠いかけたのだった。
そして悲しみのうちに都を離れ、大宰府に旅立って行ったのだった。
一方、残された梅の花は、遠くに旅立ったあるじ(道真)を慕い、やがて道真が太宰府に着くと、一夜のうちに大宰府の道真の元へ飛んで行ったと言われている。
これが「飛梅」と呼ばれる伝説であり、この菅大臣神社の地が、梅を愛でて歌を詠んだ地であるそうである。
その伝説にもとずいて、現在も飛梅の木があり、毎年美しい梅の花を咲かせているのだそうだ。
また、太宰府天満宮にも、飛んできたと言われる「飛梅」の木が植えられているそうだ。
この飛梅伝説が広がり、菅原道真を祭る天満宮には梅の花は欠かせないものとなっていったのだろう。