2010年07月の記事
2010 07/30 14:08
Category : 日記
京都の八幡市にある「流れ橋」を見に行っていたよ。
正式には上津屋橋と言う木製の橋なんだけど、木津川に架けられた橋で独特の構造をしている。
この橋は、橋げたの上に木製の橋を固定せずに乗せてあり、川が増水すると橋が流されてしまうように造られている。
橋を固定しても増水すれば流されてしまう事が多く、また橋を架けなおすには多くの費用と労力が必要になる。
ならば、初めから流される事を前提として、流されても壊れにくく、また回収しやすいように工夫されて作られたのである。
木の板を並べただけの簡単な橋で手すりさえないが、流された時に回収しやすいようにワイヤーで固定されている。
実際に使用されても居て、歩行者や自転車などが通行できるようになっていて、この橋が長されてしまうと、利用者は下流の橋まで遠まわりするしかないのだと言う。
実際に、昨年の台風で流れ橋が壊れて流されてしまい付近の住民は不便していたそうであるが、今年の六月になってようやく復旧されたのだった。
ちなみに、橋の長さは356・5メートル、幅は3.3メートルで、流れ橋としては日本最長なのだそうだ。
また、この流れ橋は雰囲気があるために時代劇などのロケにはよく使われていて必殺シリーズなどでも何度も撮影につかわれているし、映画等でもお目にかかることも多い。
テレビや映画で見たことがある方も多いのではないだろうか。
正式には上津屋橋と言う木製の橋なんだけど、木津川に架けられた橋で独特の構造をしている。
この橋は、橋げたの上に木製の橋を固定せずに乗せてあり、川が増水すると橋が流されてしまうように造られている。
橋を固定しても増水すれば流されてしまう事が多く、また橋を架けなおすには多くの費用と労力が必要になる。
ならば、初めから流される事を前提として、流されても壊れにくく、また回収しやすいように工夫されて作られたのである。
木の板を並べただけの簡単な橋で手すりさえないが、流された時に回収しやすいようにワイヤーで固定されている。
実際に使用されても居て、歩行者や自転車などが通行できるようになっていて、この橋が長されてしまうと、利用者は下流の橋まで遠まわりするしかないのだと言う。
実際に、昨年の台風で流れ橋が壊れて流されてしまい付近の住民は不便していたそうであるが、今年の六月になってようやく復旧されたのだった。
ちなみに、橋の長さは356・5メートル、幅は3.3メートルで、流れ橋としては日本最長なのだそうだ。
また、この流れ橋は雰囲気があるために時代劇などのロケにはよく使われていて必殺シリーズなどでも何度も撮影につかわれているし、映画等でもお目にかかることも多い。
テレビや映画で見たことがある方も多いのではないだろうか。
2010 07/29 17:51
Category : 日記
「小倉餡」と言えば、小豆の粒が残されたまま作られる餡子の事で、つぶ餡とも呼ばれて和菓子には欠かせないものとなっている。
その小倉餡の発祥の地が京都の嵯峨野だと言われている。
嵯峨野にある「二尊院」は、小倉山の東麓に位置し、本尊に釈迦如来と阿弥陀如来の二尊を祀るために二尊院と呼ばれている。
小倉山といえば、有名な小倉百人一首の所縁の場所でもあり、藤原定家が百人一首の元となる色紙を作成したとされる時雨亭は、この二尊院の境内にあったとされ、今もその跡地が残されている。
その二尊院の境内に、近年になって「小倉餡発祥之地」の石碑が建てられた。
この二尊院や小倉山付近の地域が小倉餡の発祥地であり、小倉の地名から小倉餡と名づけられたと言う。
伝承によると、日本で始めて小豆と砂糖で餡が炊かれたのは、平安京ができて間もなくの嵯峨天皇の時世で、弘仁11年(820年)頃の事だそうである。
当時、京のこの付近の小倉の里に煎餅を作っている「和三郎」と言う人がいたそうだ。
しかし、この当時の煎餅は、小麦粉を油で焼いたり揚げたりしたものだったと言う。
さて、弘法大師・空海が遣唐使で唐に渡っていたおりに、順宋帝に唐の「煎餅」を賜わり、その味に感激した空海がこの製法を持ち帰り、山城国小倉の里の住人の和三郎に伝えたそうだ。
その和三郎は、その製法に基づいて「亀の子煎餅」と言う名の煎餅を作り、嵯峨天皇に献上して大いに名をあげたと言う。
そして、空海が中国から持ち帰った小豆の種子を栽培し、それに御所から下賜された砂糖を加え、煮詰めて餡を作りあげた、これが小倉餡の始まりとなる。
和三郎は、これを毎年御所に献上したそうである。
ちなみに、漉し餡は小豆などを茹でた物を漉し、それに砂糖を加えて煮詰めて餡にしたものである。
こうした菓子は、極めて高価で珍しい物であり、一般庶民の口には入らなかったが、この和三郎の努力で京都を中心に小豆が広く栽培され、江戸時代には茶道の菓子となり、また一方では祝飯としてハレの料理にも加えられるようになっていった。
京菓子の技術は日本の和菓子の源流となっていったとも考えられる。
ちなみに、砂糖が庶民の口に幾分なりとも入るようになるのは、徳川八代将軍の吉宗が糖業を奨励したことにより普及をみたと言われている。
しかし、一般的な調味料として使われ始めたのは明治末期頃からだそうだ。
さて、その和三郎は承和7年2月2日(840年)に亡くなりましたが、その子孫並びに諸国同業の人々が、その功績をたたえて小倉中字愛宕の「ダイショウ」の里に一社を建て朝廷の認可を得て、屋号が「亀屋和泉」であったので「和泉明神」として祀られるようになった。
その後、年月を経て明神の社は兵火に焼かれ子孫も絶えて、只、古老の伝承として小倉の地に和泉明神の社があったと伝えられてきたが、近年になって八ツ橋で知られる井筒屋八ツ橋本舗の六代目津田左兵衛等の尽力により、二尊院の境内に小倉餡発祥之地の石碑とモニュメントが建てられたそうである。
また、同じ嵯峨野の落柿舎近くの畑にも同様の意味の立て札が立てられている。
日本の和菓子の歴史に空海が大きく関わっているのも面白いし、それを苦労して開花させた和三郎も日本の和菓子のパイオニアと言っていい存在ではなかろうか。
普段から和菓子好きで京都に行くと和菓子を買っている私にとっては、空海も和三郎も恩人のような人かも知れない。
その小倉餡の発祥の地が京都の嵯峨野だと言われている。
嵯峨野にある「二尊院」は、小倉山の東麓に位置し、本尊に釈迦如来と阿弥陀如来の二尊を祀るために二尊院と呼ばれている。
小倉山といえば、有名な小倉百人一首の所縁の場所でもあり、藤原定家が百人一首の元となる色紙を作成したとされる時雨亭は、この二尊院の境内にあったとされ、今もその跡地が残されている。
その二尊院の境内に、近年になって「小倉餡発祥之地」の石碑が建てられた。
この二尊院や小倉山付近の地域が小倉餡の発祥地であり、小倉の地名から小倉餡と名づけられたと言う。
伝承によると、日本で始めて小豆と砂糖で餡が炊かれたのは、平安京ができて間もなくの嵯峨天皇の時世で、弘仁11年(820年)頃の事だそうである。
当時、京のこの付近の小倉の里に煎餅を作っている「和三郎」と言う人がいたそうだ。
しかし、この当時の煎餅は、小麦粉を油で焼いたり揚げたりしたものだったと言う。
さて、弘法大師・空海が遣唐使で唐に渡っていたおりに、順宋帝に唐の「煎餅」を賜わり、その味に感激した空海がこの製法を持ち帰り、山城国小倉の里の住人の和三郎に伝えたそうだ。
その和三郎は、その製法に基づいて「亀の子煎餅」と言う名の煎餅を作り、嵯峨天皇に献上して大いに名をあげたと言う。
そして、空海が中国から持ち帰った小豆の種子を栽培し、それに御所から下賜された砂糖を加え、煮詰めて餡を作りあげた、これが小倉餡の始まりとなる。
和三郎は、これを毎年御所に献上したそうである。
ちなみに、漉し餡は小豆などを茹でた物を漉し、それに砂糖を加えて煮詰めて餡にしたものである。
こうした菓子は、極めて高価で珍しい物であり、一般庶民の口には入らなかったが、この和三郎の努力で京都を中心に小豆が広く栽培され、江戸時代には茶道の菓子となり、また一方では祝飯としてハレの料理にも加えられるようになっていった。
京菓子の技術は日本の和菓子の源流となっていったとも考えられる。
ちなみに、砂糖が庶民の口に幾分なりとも入るようになるのは、徳川八代将軍の吉宗が糖業を奨励したことにより普及をみたと言われている。
しかし、一般的な調味料として使われ始めたのは明治末期頃からだそうだ。
さて、その和三郎は承和7年2月2日(840年)に亡くなりましたが、その子孫並びに諸国同業の人々が、その功績をたたえて小倉中字愛宕の「ダイショウ」の里に一社を建て朝廷の認可を得て、屋号が「亀屋和泉」であったので「和泉明神」として祀られるようになった。
その後、年月を経て明神の社は兵火に焼かれ子孫も絶えて、只、古老の伝承として小倉の地に和泉明神の社があったと伝えられてきたが、近年になって八ツ橋で知られる井筒屋八ツ橋本舗の六代目津田左兵衛等の尽力により、二尊院の境内に小倉餡発祥之地の石碑とモニュメントが建てられたそうである。
また、同じ嵯峨野の落柿舎近くの畑にも同様の意味の立て札が立てられている。
日本の和菓子の歴史に空海が大きく関わっているのも面白いし、それを苦労して開花させた和三郎も日本の和菓子のパイオニアと言っていい存在ではなかろうか。
普段から和菓子好きで京都に行くと和菓子を買っている私にとっては、空海も和三郎も恩人のような人かも知れない。
2010 07/24 14:13
Category : 日記
怪談専門誌として知る人ぞ知る「幽」も金剛で3号になる。
年に二回の刊行ながら豪華な作家陣も魅力で毎号楽しみに読んでいる。
でも、実話系も多いので夜に読むのは少し怖いんだよね・・・前に夜に読んだ時に金縛りになったしね(苦笑)
今号の目玉は「女たちの百物語」と「二百一年目の上田秋成」。
女たちの百物語は、加門七海・岩井志麻子・伊藤三巳華・宇佐美まこと・勝山海百合・神狛しず・宍戸レイ・立原透耶・長島槇子・三輪チサ、等等の女性作家の皆さんが百物語を行ったもので、抜粋ながらそれぞれの語られた話が掲載されていて面白い。
また加門七海さんの「百物語の作法」が興味深かった、百物語は儀式であり、面白半分に知識もなくやっていいものではないんだよね。
加門さんの本にはいろいろと教えられる事ばかりだよ。
怪談徒然日記が最終回なのが残念だよ。
ボリュウムがあるので、まだ読み始めたばかりだけど、ぼちぼち楽しみながら読んでいこうと思う。
年に二回の刊行ながら豪華な作家陣も魅力で毎号楽しみに読んでいる。
でも、実話系も多いので夜に読むのは少し怖いんだよね・・・前に夜に読んだ時に金縛りになったしね(苦笑)
今号の目玉は「女たちの百物語」と「二百一年目の上田秋成」。
女たちの百物語は、加門七海・岩井志麻子・伊藤三巳華・宇佐美まこと・勝山海百合・神狛しず・宍戸レイ・立原透耶・長島槇子・三輪チサ、等等の女性作家の皆さんが百物語を行ったもので、抜粋ながらそれぞれの語られた話が掲載されていて面白い。
また加門七海さんの「百物語の作法」が興味深かった、百物語は儀式であり、面白半分に知識もなくやっていいものではないんだよね。
加門さんの本にはいろいろと教えられる事ばかりだよ。
怪談徒然日記が最終回なのが残念だよ。
ボリュウムがあるので、まだ読み始めたばかりだけど、ぼちぼち楽しみながら読んでいこうと思う。
2010 07/23 13:44
Category : 日記
今日もカンカン照りで暑い日だね、どこに行ってもセミが鳴いてて、こんなにたくさんセミっていたっけって思ったよ。
今日は月曜に出勤したのでその振り替えでお休みだよ、コレだけ暑いと何もしたくなくなるね。
それでも、買い物には行きたいのでイオン大日まで行って、本とかいろいろ買ってきたよ。
それで、イオン大日でアニメロボットのプラモやグッズの販売展みたいなのをやってて、いろいろと展示もしてあったよ。
なかでも目立ったのがエヴァンゲリオンとガンダムのフィギュア。
エヴァンゲリオンのが大きくて良い感じだね。
ガンダムも、ジオラマに作られてるのも面白かった。
そう言えば、昔はガンダムのプラモもよく作ったなぁ。
もう何年もプラムも作ってないので彩色道具とか行方不明だよ。
久しぶりに、プラモ作ってみたいなぁ。
今日は月曜に出勤したのでその振り替えでお休みだよ、コレだけ暑いと何もしたくなくなるね。
それでも、買い物には行きたいのでイオン大日まで行って、本とかいろいろ買ってきたよ。
それで、イオン大日でアニメロボットのプラモやグッズの販売展みたいなのをやってて、いろいろと展示もしてあったよ。
なかでも目立ったのがエヴァンゲリオンとガンダムのフィギュア。
エヴァンゲリオンのが大きくて良い感じだね。
ガンダムも、ジオラマに作られてるのも面白かった。
そう言えば、昔はガンダムのプラモもよく作ったなぁ。
もう何年もプラムも作ってないので彩色道具とか行方不明だよ。
久しぶりに、プラモ作ってみたいなぁ。
2010 07/17 13:00
Category : 日記
今日は久しぶりに良いお天気だね。
今日、7月17日は京都では祇園祭の山鉾巡行の日だよ。
今年の祇園祭は今週に雨が続いたので宵々々山、宵々山、宵山と雨が降ったりしたのだけど、一番の人気の山鉾巡行は土曜日で晴れて良かったね。
しかし、祇園祭の山鉾巡行と言えば暑いし、人は凄い混雑だし、揉め事も多いしで、以前に行った時もクタクタになったので、あまり見に行きたくは無い。
でも、少し雰囲気を味わいたいと思って、巡行前の早朝の山鉾の様子を見に行って来たよ。
祇園祭の山や鉾は、各町内に安置されて、宵々山や宵山で公開されるんだよね、それで今日の巡行に合わせて、組み立てたり片付けたりするのである。
地下鉄の烏丸線で烏丸御池まで行き、そこから室町通や新町通をぶらぶらと歩いて山や鉾を見て歩いた。
山とかは、組み木を外したり、人形を組み立てたり、いろろと準備されてる様子を興味深く見れて良かったよ。
特に、お気に入りの船鉾や蟷螂鉾、それに長刀鉾とかゆっくり見れて楽しかった。
それで、混雑する間に帰ろうと思って四条通を歩くと、すでに巡行見物の人たちが場所取りしてて歩き難い。
この暑さと日差しと混雑で大変やろなぁって思いながら歩いていたよ。
祇園祭は、山鉾巡行は終わっても、まだ花笠巡行や還幸祭、神輿洗や疫神社夏越祭など今月いっぱいいろいろな行事が行われる。
もともとは天災や疫病退散を願って行われたものだそうであるから、無事に終えて疫病や災難や災害等を祓えますように。
今日、7月17日は京都では祇園祭の山鉾巡行の日だよ。
今年の祇園祭は今週に雨が続いたので宵々々山、宵々山、宵山と雨が降ったりしたのだけど、一番の人気の山鉾巡行は土曜日で晴れて良かったね。
しかし、祇園祭の山鉾巡行と言えば暑いし、人は凄い混雑だし、揉め事も多いしで、以前に行った時もクタクタになったので、あまり見に行きたくは無い。
でも、少し雰囲気を味わいたいと思って、巡行前の早朝の山鉾の様子を見に行って来たよ。
祇園祭の山や鉾は、各町内に安置されて、宵々山や宵山で公開されるんだよね、それで今日の巡行に合わせて、組み立てたり片付けたりするのである。
地下鉄の烏丸線で烏丸御池まで行き、そこから室町通や新町通をぶらぶらと歩いて山や鉾を見て歩いた。
山とかは、組み木を外したり、人形を組み立てたり、いろろと準備されてる様子を興味深く見れて良かったよ。
特に、お気に入りの船鉾や蟷螂鉾、それに長刀鉾とかゆっくり見れて楽しかった。
それで、混雑する間に帰ろうと思って四条通を歩くと、すでに巡行見物の人たちが場所取りしてて歩き難い。
この暑さと日差しと混雑で大変やろなぁって思いながら歩いていたよ。
祇園祭は、山鉾巡行は終わっても、まだ花笠巡行や還幸祭、神輿洗や疫神社夏越祭など今月いっぱいいろいろな行事が行われる。
もともとは天災や疫病退散を願って行われたものだそうであるから、無事に終えて疫病や災難や災害等を祓えますように。
2010 07/09 15:14
Category : 日記
今日は一時帰休でお休みになったので、京都の花園にある法金剛院に蓮の花を見に行って来た。
しかし・・・今日も天気予報では曇りだったのに、京都に着いたら雨が降りだしたよ、これでもう三週連続でお休みになると雨降りだよ。
さて、法金剛院は待賢門院が極楽浄土として造園させた池泉廻遊式浄土庭園があり、巨石を並べた青女の滝が有名である。
その池には極楽浄土を現すように、たくさんの蓮が植えられて、「蓮の寺」とも呼ばれているのである。
法金剛院では、毎年第二土曜日から観蓮会として早朝から開門している。
さて、池の方は大きな蓮がいっぱいで、神秘的な雰囲気である。
あいにくと蓮の花の開花は、まだこれからの感じであるが鉢植えの蓮はきれいに開花していた。
蓮の花は、仏教では泥水の中から生じ清浄な美しい花を咲かせる姿が仏の智慧や慈悲の象徴とされ、お釈迦様の台座は蓮華をかたどった蓮華座であり、また厨子の扉の内側に蓮華の彫刻を施したりしている。
また死後に極楽浄土に往生し、同じ蓮花の上に生まれ変わって身を託すという思想があり、「一蓮托生」という言葉の語源になっているのである。
蓮の泥の中の根が蓮根(レンコン)になるのも、割と知らない人も多いね。
映画の男はつらいよの主題歌の歌詞で「泥に落ちても根のあるやつは、いつかは蓮(はちす)の花と咲く」と言うもがあるけれど、蓮の花は清楚で清清しくも神秘的な美しさだね。
雨降りだったけど、ゆっくりと蓮の花を堪能して楽しめたよ。
しかし・・・今日も天気予報では曇りだったのに、京都に着いたら雨が降りだしたよ、これでもう三週連続でお休みになると雨降りだよ。
さて、法金剛院は待賢門院が極楽浄土として造園させた池泉廻遊式浄土庭園があり、巨石を並べた青女の滝が有名である。
その池には極楽浄土を現すように、たくさんの蓮が植えられて、「蓮の寺」とも呼ばれているのである。
法金剛院では、毎年第二土曜日から観蓮会として早朝から開門している。
さて、池の方は大きな蓮がいっぱいで、神秘的な雰囲気である。
あいにくと蓮の花の開花は、まだこれからの感じであるが鉢植えの蓮はきれいに開花していた。
蓮の花は、仏教では泥水の中から生じ清浄な美しい花を咲かせる姿が仏の智慧や慈悲の象徴とされ、お釈迦様の台座は蓮華をかたどった蓮華座であり、また厨子の扉の内側に蓮華の彫刻を施したりしている。
また死後に極楽浄土に往生し、同じ蓮花の上に生まれ変わって身を託すという思想があり、「一蓮托生」という言葉の語源になっているのである。
蓮の泥の中の根が蓮根(レンコン)になるのも、割と知らない人も多いね。
映画の男はつらいよの主題歌の歌詞で「泥に落ちても根のあるやつは、いつかは蓮(はちす)の花と咲く」と言うもがあるけれど、蓮の花は清楚で清清しくも神秘的な美しさだね。
雨降りだったけど、ゆっくりと蓮の花を堪能して楽しめたよ。
2010 07/03 12:40
Category : 日記
今日も朝から雨降りだよ、先週も雨だったし雨が多いね。
7月に入って、もうすぐ七夕だね。
私が暮らす寝屋川市の近くにある枚方市や交野市は古代には「交野ヶ原」と呼ばれ、七夕に関する伝説や史跡が残っている。
毎年、交野ヶ原の七夕伝説については書いているのだが、今日も雨の中を七夕伝説の舞台となる「天の川」や「逢合橋」(あいあいばし)、そして「かささぎ橋」を歩いてきた。
京阪の枚方市駅には「ひらかた市民菊人形」として織姫とひこ星の菊人形が飾られていたよ。
そういえば、今年は京阪電車100周年を記念してひらかたパークの菊人形が限定で復活されるとか、今から楽しみだよ♪
さて、ご存知のように、七夕とは天の川に隔てられた牽牛(けんぎゅう)と織姫(おりひめ)とが7月7日の夜、年に一度だけ逢えるという伝説だ。
もともと七夕伝説は中国の伝説で、春秋時代に書かれたと言われる「詩経」にすでに書かれているそうで六世紀には七夕の夜に瓜や茄子などの収穫物を供えたり、針に五色の糸を通して手芸の上達を願ったと言う。
やがて、日本にも奈良時代には七夕が伝わるようになり、和歌などにも多くの歌が残されているのだが、江戸時代になって庶民の間に手習い事が盛んになると、七夕の儀式が拡大されて短冊に願い事を書いて笹に吊るすと上達すると言う事になり、現在のように願い事を書くようになっていったそうだ。
始めに「天の川」であるが、枚方市内には「天野川」(天の川)と言う川が流れており、その名前の由来は諸説あるのだが、川の周囲で稲作が始まった頃に甘野川と言っていたのを後の平安の頃に大空の天の川になぞらえて「天の川」と呼んだと言う説や、川砂が白く光って見えるところから、天上の銀河になぞられて名付けられたと言う説があるようだ。
また、交野ヶ原には、この天の川にちなんでか、この辺りは七夕伝説の格好の舞台となり、七夕や星にまつわる史跡や地名も数多く残されている。
七夕伝説では、JR学研都市線の津田駅から南の方に向かった交野市の倉治の地に「織姫」と言われる「天棚機比売大神」(あまのたなばたひめおおかみ)を祀る機物神社(はたものじんじゃ)がある。
普段は静かな古社であるが、七夕の時期には境内に笹の木を立てて多くの願いを書かれた短冊が吊るされて賑わうようだ。
そして、この織姫を祀る機物神社の天の川を挟んで対になる位置に「牽牛石」(けんぎゅうせき)と言われている岩が祀られている。
京阪電車の交野線の「郡津」駅の西の方、香里団地の藤田川の「けやき通り」を西に向かった香里ヶ丘4にある「観音山公園」(かんのんやまこうえん)の、東の端の少し高くなっている場所に牽牛石は鎮座している。
牽牛石はそれほど大きくは無いが、牛と言われれば牛に似ていないこともないが、普通にあればただの岩と思うだろう。
牽牛石の立て札があるので、これが牽牛石で「ひこ星」の化身だと判るようになっている。
この牽牛石は高台になっているので見晴らしは良く、古代にはここから織姫のいる機物神社がながめられたのかも知れない。
次に七夕伝説にちなんだ「逢合橋」(あいあいばし)である。
これは京阪電車交野線の交野市駅近くの天の川にかけられた橋であり、機物神社の織姫と牽牛石のひこ星が年に一度、天の川にかかる「逢合橋」という名の橋で二人が逢い、愛し合うというロマンチックな伝説が伝えられているのである。
現在の逢合橋は普通のコンクリートの橋で、橋に付けられた「逢合橋」のプレートくらいしか往時を思わせるものは無いのだが、昔は木の橋だったそうだ。
今の逢合橋は車の通行も多くて危険だが、隣りに歩行用の橋もかけられているので、七夕の夜に逢合橋で好きな人と星を見るのも素敵かも知れない。
もう一つ訪れたのが「かささぎ橋」と言う橋である。
こちらは天の川が流れる枚方市の京阪枚方市駅の近くにある大きなコンクリートの橋だ。
これは、七夕の夜に織姫がひこ星のいる天の川の向こうへ渡るときに、鵲(かささぎ)が羽根を広げて橋を作り、織姫を天の川を渡るのを助けて、織姫とひこ星の二人が逢うのを取り持ったという伝説にちなんだものだそうだ。
万葉集や百人一首の大伴家持の和歌にもこういうのがあったね。
~かささぎの 渡せる橋に おく霜の 白きを見れば 夜ぞふけにける~
ちなみに、かささぎ橋のたもとには、七夕伝説のかささぎにちなんだレリーフが置かれている。
また、同じく枚方市駅の近くの橋には、天の橋という意味で織姫とひこ星が船で渡って出会うと言われる「天津橋」(あまつばし)など、七夕伝説にちなんだ橋がかかっている。
いろいろと古代からの史跡や伝説の残る交野ヶ原の地、七夕の日にそれらの伝説を巡りながら散策して見るのも楽しい物だし、恋人と思い出を作るのも良いかも知れない。
あなたの願いが叶い素敵な七夕になりますように・・・・
7月に入って、もうすぐ七夕だね。
私が暮らす寝屋川市の近くにある枚方市や交野市は古代には「交野ヶ原」と呼ばれ、七夕に関する伝説や史跡が残っている。
毎年、交野ヶ原の七夕伝説については書いているのだが、今日も雨の中を七夕伝説の舞台となる「天の川」や「逢合橋」(あいあいばし)、そして「かささぎ橋」を歩いてきた。
京阪の枚方市駅には「ひらかた市民菊人形」として織姫とひこ星の菊人形が飾られていたよ。
そういえば、今年は京阪電車100周年を記念してひらかたパークの菊人形が限定で復活されるとか、今から楽しみだよ♪
さて、ご存知のように、七夕とは天の川に隔てられた牽牛(けんぎゅう)と織姫(おりひめ)とが7月7日の夜、年に一度だけ逢えるという伝説だ。
もともと七夕伝説は中国の伝説で、春秋時代に書かれたと言われる「詩経」にすでに書かれているそうで六世紀には七夕の夜に瓜や茄子などの収穫物を供えたり、針に五色の糸を通して手芸の上達を願ったと言う。
やがて、日本にも奈良時代には七夕が伝わるようになり、和歌などにも多くの歌が残されているのだが、江戸時代になって庶民の間に手習い事が盛んになると、七夕の儀式が拡大されて短冊に願い事を書いて笹に吊るすと上達すると言う事になり、現在のように願い事を書くようになっていったそうだ。
始めに「天の川」であるが、枚方市内には「天野川」(天の川)と言う川が流れており、その名前の由来は諸説あるのだが、川の周囲で稲作が始まった頃に甘野川と言っていたのを後の平安の頃に大空の天の川になぞらえて「天の川」と呼んだと言う説や、川砂が白く光って見えるところから、天上の銀河になぞられて名付けられたと言う説があるようだ。
また、交野ヶ原には、この天の川にちなんでか、この辺りは七夕伝説の格好の舞台となり、七夕や星にまつわる史跡や地名も数多く残されている。
七夕伝説では、JR学研都市線の津田駅から南の方に向かった交野市の倉治の地に「織姫」と言われる「天棚機比売大神」(あまのたなばたひめおおかみ)を祀る機物神社(はたものじんじゃ)がある。
普段は静かな古社であるが、七夕の時期には境内に笹の木を立てて多くの願いを書かれた短冊が吊るされて賑わうようだ。
そして、この織姫を祀る機物神社の天の川を挟んで対になる位置に「牽牛石」(けんぎゅうせき)と言われている岩が祀られている。
京阪電車の交野線の「郡津」駅の西の方、香里団地の藤田川の「けやき通り」を西に向かった香里ヶ丘4にある「観音山公園」(かんのんやまこうえん)の、東の端の少し高くなっている場所に牽牛石は鎮座している。
牽牛石はそれほど大きくは無いが、牛と言われれば牛に似ていないこともないが、普通にあればただの岩と思うだろう。
牽牛石の立て札があるので、これが牽牛石で「ひこ星」の化身だと判るようになっている。
この牽牛石は高台になっているので見晴らしは良く、古代にはここから織姫のいる機物神社がながめられたのかも知れない。
次に七夕伝説にちなんだ「逢合橋」(あいあいばし)である。
これは京阪電車交野線の交野市駅近くの天の川にかけられた橋であり、機物神社の織姫と牽牛石のひこ星が年に一度、天の川にかかる「逢合橋」という名の橋で二人が逢い、愛し合うというロマンチックな伝説が伝えられているのである。
現在の逢合橋は普通のコンクリートの橋で、橋に付けられた「逢合橋」のプレートくらいしか往時を思わせるものは無いのだが、昔は木の橋だったそうだ。
今の逢合橋は車の通行も多くて危険だが、隣りに歩行用の橋もかけられているので、七夕の夜に逢合橋で好きな人と星を見るのも素敵かも知れない。
もう一つ訪れたのが「かささぎ橋」と言う橋である。
こちらは天の川が流れる枚方市の京阪枚方市駅の近くにある大きなコンクリートの橋だ。
これは、七夕の夜に織姫がひこ星のいる天の川の向こうへ渡るときに、鵲(かささぎ)が羽根を広げて橋を作り、織姫を天の川を渡るのを助けて、織姫とひこ星の二人が逢うのを取り持ったという伝説にちなんだものだそうだ。
万葉集や百人一首の大伴家持の和歌にもこういうのがあったね。
~かささぎの 渡せる橋に おく霜の 白きを見れば 夜ぞふけにける~
ちなみに、かささぎ橋のたもとには、七夕伝説のかささぎにちなんだレリーフが置かれている。
また、同じく枚方市駅の近くの橋には、天の橋という意味で織姫とひこ星が船で渡って出会うと言われる「天津橋」(あまつばし)など、七夕伝説にちなんだ橋がかかっている。
いろいろと古代からの史跡や伝説の残る交野ヶ原の地、七夕の日にそれらの伝説を巡りながら散策して見るのも楽しい物だし、恋人と思い出を作るのも良いかも知れない。
あなたの願いが叶い素敵な七夕になりますように・・・・