2015年03月の記事


桜の花びらは白く、桜そのものは淡いピンク色。
桜は何故あれほど人々の心をひきつけるのでしょう。

一本の大きな木に沢山の桜花が咲き、
風にそよそよ揺れながらまるで夢を見ているよう。

歩いても歩いても桜並木が続く故郷の川沿い。
道の両側に並んで咲いている桜はなんと美しいのか。

ソメイヨシノの桜を見たのは4年前の町会役員の時、
主人の不在時は私が町会の仕事をしていた。

3月に東日本大震災が有った年だから、
はっきり覚えている。

船に乗っているように横揺れが長く続いて、
中々揺れが止まらずに不安を感じ大震災の恐ろしさを知る。

あれから地震が来る度に胃腸を壊すようになり、
身体のあちこちに異常をきたすようになった。

なんと気の弱い人間なのかと自分自身にあきれる。
未だに悩みが有れば食欲は無くなり、体調を崩す弱虫。

桜だって花冷えする夜空にひらひら揺れながら、
1年耐えて咲けた姿を皆に見て貰いたいと舞い踊る。

短い命でも大勢の人々に愛される桜、
他の花に比べれば幸福な花だと思う。

婚礼や結納の席で桜湯が出されるのは縁起がいいと、
塩漬けの桜にお湯を注いだ桜湯を頂いた事が有る。

沖縄にはソメイヨシノが無いのが寂しい。
それでも半年、元気に自由に暮らせた事に感謝。

背高のっぽの主人がどんどん痩せていくのが心配で、
あれ食べてこれ食べてもっと太ってと気遣うこの頃。

ダンス、ゲートボール、ボーリング、グランドゴルフ等の
スポーツをしている割には栄養の摂り方が足りない。

いくら言っても安くてCalの少ない物を摂って居る為、
週に一度位、私は叱られながらCalの高い美味しい物を出している。

本土の人達とも連絡を取り合っている彼の話の内容は
聞かないふりをしている。

昨日はすうすう風が肌寒い位だったが、
今夜は蒸し暑い。暦はもうすぐ弥生とお別れになる。
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山笑う



雨や曇りが多い今年、暗い空にうんざりしていた。
処が今週に入れば太陽の眩しい晴れの日が続く。

1年を通じて湿気が多く亜熱帯気候に属し、
晴れゝば蒸し暑さが増し玉の汗が流れる。

沖縄が真夏に30℃の時、本土が33℃あるとすれば
沖縄の方が涼しそう!と思われがち。

しかし、気温よりもずっと蒸し暑く巨大台風が数回襲い、
それが本土に行けば徐々に勢力が衰える。

沖縄の夏は、日差しは強いけれど海風が吹きこみ
35℃を超える猛暑日になる事は少ない。

住んでいる人達も人懐こくて優しく人情深い。
私は本土へ帰りたくない気持ちが強い。

永住するなら本土に帰って手続きも必用になり、
一人でも沖縄に住みたいと主人に相談をしている。

行ったり来たりの落ち着かない生活が嫌になってしまった。
彼は我が家も直す気もなく北海道に行くらしい。

勝手気ままな人だから好きな事をしても諦めている。
大地震や巨大台風がこなければ一人暮らしも気楽かも。

半年以上も家に住まなければどんどん傷むと思っていたが、
高気密、高断熱になっていれば閉めきった家でも傷まない。

静岡に帰って家が傷んだと思った事はないし、
木造建ての家が30年以上過ぎて海沿いにあれば
住んでも住まなくても老朽化はしていく。

自転車等、購入しても直ぐに錆が出てしまう。
主人が家を修理する気がないのに私が直すのもおかしい。

そうはいっても家に帰れば窓を開けて換気を良くし、
過ごしやすいように気を使う。

真っ直ぐにお仏壇に向かい「放って置いてごめんなさい。」
心のなかでご先祖様にお詫びをしてお線香をあげる。

今の沖縄は国頭郡東村の山の上でツツジ祭りが開催され、
ツツジの明るい色で青い山に春がきたことを思わせる。
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弥生
11日は、東日本大震災から4年目にあたり
大変な経験をした東北の方達の辛さは計り知れない。

被災地の方いわく物は有るから心のケア―をして欲しいとの事。
私は数回募金をしたが沖縄に来る度、募金もしていない。

故郷の家は、海に近く東南海地震もくると言われているが、
我が家は耐震強度の工事も主人の反対で出来ない。

親友宅は耐震強度の工事をして市から三分の一出して貰い、
我が家より古い家でも見違える程しっかりしている。

家を修理する気がないなら沖縄に永住しましょうと、
何度か主人にお願いすれば「うん」と言うだけ。

住まいをくるくる変わるのは地元の事も分からなくなり、
住み難くなったり引っ越し生活は疲れる。

この時期は地中で冬籠りしていた虫が春の到来を感じ、
草木が芽吹くと同時に地上に這い出してくる啓蟄。

二十四節気の一つ啓蟄は文字の通り虫が這い出てくる頃。
この時期は一雨ごとに気温が上がり春に近づいていく。

風が吹く度に立てる絹ずれの如くさらさらと音を奏でるように。
耳を傾ければ雨がガラス窓に風と共に飛んでくる。

その雨は暫くガラス窓に止まったまま、
涙のような粒がいっぱい溜まっていた。

静岡は、比較的温暖で桜の花の蕾も出た頃。
古い桜木から桜の花の蕾が出るなんてすごい。

1年も知らんふりしていたのに蕾が微かに芽吹き、
そんな光景をこの目で見たかった。

桜が満開になれば夢心地になり散る時は心なしか切ない。
花の命が短いからこそ、
その美しさを感じるのかも知れない。

空き地には名も知らぬ白い花が咲き始め、
様々な草花の芽が出てまさに木の芽の三月。

沖縄はもう少しでツツジが咲き誇り
ツツジ祭りが始まれば人々の笑みがこぼれる。
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明日になれば



今週少し薄日が差した、嬉しいな晴れるかしら?
そう思う間もなく暗雲が立ち込め空が暗くなる。

まるで波が押し寄せるように黙々と走る雲。
雨が降りそう、急いで帰り洗濯物を取り込む。

すると雲間から太陽が顔をだし、
ぱっと明るくなれば暖かくなる。

買物に行こうと外に出るとき、
五階に住む未亡人の奥様にぱったり出会う。

人懐こい高齢のその方は挨拶すれば話しかけてくる。
「言葉が内地の話し方ですね。」と聞かれ内地から来た事を話す。

その方は内地にお嫁に行きご主人様が亡くなった為、
故郷の沖縄に帰って来たとのこと。

幾つ位に見えます?問われ年を多く言っては悪いと思い、
75才前後ですかと答えた。

すると満面の笑顔で83才ですと聞いて驚く、
とても80代には見えない程お元気に見えた。

「遊びに来てくださいね。」何曜日は誰が来るとか、
何曜日は留守とか、とても社交家に思えた。

私は会う約束はしていないが、
老後を楽しく暮らしているという感じを受けた。

私は2月下旬から風邪をひいていたので
炊事、買物、洗濯、片付け等は手抜きで家事をしていた。

雨降りの日は主人が冷蔵庫のチェックをし、
古い物が残っているぞ!古い物から食べるのだ!
その通りだと思う。

しかし、お魚屋さんに聞いたら
冷凍してあっても菌が付着しているかも知れないと言う。

悪妻の私は古い鰤の荒を捨て、新しい鰤の荒を買い、
彼に分からないように直ぐに鰤大根を作った。

「美味しいな。」お世辞だと思うがうなづいて黙っていた。
この頃は、見ざる聞かざる、言わざるが無難で良いと思う。

そうしていると段々無口な自分になり、
曇り空のように愛想のない自分が居ると分かる。

明日になれば晴れるかしら、
北の空はうっすらと白い雲が浮かび晴れる予感がする。
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桃の節句そして母
3月3日は雛人形を飾り、菱餅、雛あられ、白酒、桃の花等を飾る。
私は幼い頃、母に雛人形を飾って貰うと喜んでいた。

母の実家の従妹の雛壇を見に行くと豪華で、
私の雛壇は段数も少なく貧相に見えた。

それでも飾って貰い嬉しくてはしゃいでいた。
小学校を卒業する数年前から雛壇も消え、

節句がきても忘れる位両親が忙しく動いていた事を思い出す。
子供ながらにただならぬ気配を感じていた。

そして中学二年の冬、負債を抱えて苦しむ親の勧めで
勉強をしなければならない大切な時期をバイトに費やした。

特に夏休みや冬休みは長い為自宅を離れ泊まり込みで仕事をし、
夏休みの終わる数日前、冬休みは元日の朝に帰宅した。

宿題や勉強が沢山あっても暖かい炬燵で待つ
両親に会いたくて「只今~」走って家に帰った。

お正月と言ってもお餅を焼いた物とお雑煮しか無かったが、
他人に遠慮している時より、親なら言いたい事も言える。

高卒後、就職試験問題が数学、国語、英語、作文の四科目出て、
英語は苦手で数学は難しく、国語と作文は何とかできたと思った。

そこで会社員生活が始まり仕事も楽しかった
土、日は親友の親が経営する高級料亭でバイトをする日々。

月給を貰い定期貯金が満期になれば親が使ってしまい、
がっかりし、こんな親とは離れたいと思うようになる。

その会社は退職してしまい、後の会社は二十数年働き、
両親と離れて暮らしお正月、お盆等はお小遣いをあげていた。

糖尿から高血圧が下がらず風邪と下痢も続き亡くなった母。
以前から病院に行く事を勧めても嫌がり医院に通っていた。

母の体調がそれほど悪いとは知らず、
郵便局から母へのお小遣いを何故か速達で送ったのは、
どうしてだったのか思い出せない。

母が亡くなる前日に速達が届き、そっと胸にしまってくれたと
叔母に聞いたが、急な話で驚き目の前が真っ暗になった。

辛い長時間残業をしていた私は身体が辛くて、
人に優しくする事さえも忘れていた。

亡き母に会って身体を拭いても一滴の涙も出ない自分は、
なんと親不幸な娘だろうと分かっていた。

私が29才、3月4日の木枯らしの寒い日だったと思う。
2週間後、最後に親不孝をしてしまい悔いと悲しみの涙が流れた。

雛祭りがくる度に地主の娘として世間知らずで育った母、
その老後は苦労しても父と仲良く暮らせた事が幸せだった。

どんなに忙しい仕事をしていたとしても、どんな理由があろうと、
亡くなる前に母に会いたかった。

親不幸な私は、両親に仕送りしても愛情を注ぐ事を忘れていた。
許してね、お母さん、亡き後はずっと大切に心のなかにいますよ。
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