コンブムイ=昆布森と旅宿241123
 コンブムイ=昆布森と旅宿241123

 昨日「コンプモイ 昆布無以 昆布森」を下記に投稿。
 https://www.facebook.com/profile.php?id=100008107031694
 日野市にお住いのお方が、「クスリ」図&「コンプムイ」図ほか、『北海道歴検図』所収の図版を送ってくださった。

 1)「クスリ 四里七丁 至 コンブムイ」
 2)「コンブムイ 五里二十一丁 至 センポチニ」との記載。
 照会事項があって<絵図による情報>解読が必要であった。

 用意した照会に対する、返答一案。
 (照会)「2)当時はコンブムイに旅宿があったと記述]
(提示)渋江書は明確に「旅宿」としておりますか。
 釧路、様似、厚岸など主要地点には「会所+旅宿」の設備が別棟で設置されている点が文化6年=1809年記録で明確になっています。また、「クスリ」地点のように「旅宿所」が明記された『陸地道中絵図』の例もあります。
 寛政11年=1799年正月、幕府は浦河~知床を幕府領にして、10ヶ所の旅宿所を10年ほどの期間に設置する計画を示し中に昆布森も含まれています。建築に要する部材は陸奥国下北郡大畑で刻み込み、海路輸送で現地組み立ての手順であった点も判明しています。

 昆布森について『奇勝図』や『陸地道中絵図』に番屋と旅宿の書き分けがあったか、どうか。複製写真を見てみないと不明。つまり平成4年当時に確認した記憶がないのです。
 転じて文化6年記載の幕府下僚の復命書&報告書を読んでみると、昆布森にあった施設は「番屋」「草小屋4棟(思うに伝馬用馬飼育飼料保管庫)」を確認するのみで、確かなところ判明しがたいのです。しかし確実な点は、寛政10年までは「野宿」であった。

 役人を往来させるに、野宿は認めがたく、「旅宿」の機能を確保しようとした。しかし、様似、釧路、厚岸などの要衝は先行しても、中間に位置する地点は、ひょっとすると間に合わないまま。それは考えられます。別な役人記載では「(漁業)番屋兼用」の記載でも、渋江記録が「旅宿」としているのも一つの記載。今後、その他の「記録の検討」とする、有力な根拠。そう、聴かせていただければと。読ませていただいています。