戦後保守政治の岐路か 寺島実郎「石橋湛山は変わりゆく世界秩序に必死になって食らいついた」231113
 「イシバシタンザンくーん ◆点、キシノブスケくーん■点。この結果、本院は・・・・・」。
石橋湛山内閣の誕生の瞬間を、nhk第一放送のラジオ番組で聴いていた。
それは昭和31年12月14日のことであったか。どうもそれは自民党総裁選挙の結果であって、首班指名のそれとは違うらしいが、今も思い出す。

 当時、中学校には社会科の担当で佐京寛髄という先生がおられて、生徒に一言、申された。
 「石橋さんは、ほかの政治家とは違う、かならず立派な仕事をしてくれる」。
 石橋さんそのころ、立正大学学長も務めていたように記憶する。「母校の先生を、そう持ち上げるか」。漠然とその自分は思いをはせていた。

 (ここまでネット情報では、以下の記載がヒットした)
 https://www.ndl.go.jp/modern/cha6/images/h2_2.gif 国立国会図書館
 「6-9 石橋内閣」 石橋内閣 『昭和 二万日の全記録』第11巻所収
 昭和31(1956)年12月14日、鳩山の後継総裁を決める自民党総裁選挙で決選投票の末、岸信介を破り首相に就任した石橋湛山は、翌年1月、福祉国家の建設、世界平和の確立など「わが五つの誓い」を発表した。
 掲出資料は全国遊説のための自筆原稿で、自主独立の平和外交、国民生活の安定と向上などとともに、民主主義の根本は個性の尊重であるという石橋の自由主義的政治信念が表明されている。

 石橋首相は激しい政局を乗り切っているとき、病魔に倒れた。岸信介氏や石井光次郎氏との総裁選挙を制したのちのことであった。
 2月25日に内閣総辞職。政権は短命であった。年譜を読むと、1973年まで健在であった。辞職後、16年は健在であったことになる。意外でもあった。
 本年は没後50周年になるという。

 寺島実郎「石橋湛山は変わりゆく世界秩序に必死になって食らいついた」(東洋経済新報 11/13(月) 5:11配信)を読んだ。
 https://news.yahoo.co.jp/articles/e26b569212569434eb9c24795fccd75dc23546f9
 実に意味合いが深い。戦後保守政治の岐路であったかも知れない。