家斉公建立寺院 息女の婚家がのちに地域経営 史跡・国泰寺跡
 家斉公建立寺院 息女の婚家がのちに地域経営 史跡・国泰寺跡.



 厚岸町郷土館に内田伊七筆『生国出立日記』が伝わっている。
 記録は故郷の佐賀を跡に厚岸に到着までの移動記録。

 団体移住で鍋島家中からなぜに厚岸へ派遣されることになったのか。
 その展開を問われると、現地サイドでは明らかにしにくい事情にある。

 佐賀藩が釧路郡、川上郡を経営地に選択したのは事情があった。
 鍋島家家臣の島義勇が寿都の宿に宿泊したとき、松浦武四郎の書簡が託されてあった。
 松浦は開拓の地に、蝦夷地中どこかを選べと問われたら、「クスリの地を」と記載してあったから。

 佐賀藩は、
 この書簡に注目したか釧路川流域の両郡をシッカリ押さえる。
 そこまでは納得するも、次に厚岸を選択した要因。 
 厚岸郡は蝦夷地太平洋岸の枢要地であった。それは本州側からの見立てではあるも。

 「よもや」とは推測する。
 厚岸には徳川家第十一世、家斉公建立の寺院がある。
 その公は男26人、女27人の子だくさんであった。 
 26人の息女のお一人が鍋島家に降下していた。「テテ様のお作りになった臨済宗寺院」。

 娘はそこに気がついた。とてもそうは、思えぬが。
 海洋都市。
 実に多くの側妾さんたちを海にたとえるは、実に品格にかける、が。 
 息男・息女は全国の大名家に。国中に宗家・徳川のネットワークが敷設された。それは間違いがない。

一隻の舟が大海にうかび、生み出した命が広いネットワークを示そうとした。
 「将軍・徳川家斉が「53人も子供を作った」ワケ
「男子26人、女子27人」はスゴすぎです…」は テレビ番組にもあった。