喜界島と喜界ケ島 『源平盛衰記』


喜界島と喜界ケ島 『源平盛衰記』
 今朝のNHK大学『自然のアルバム』、161204は「喜界島」.

 喜界島と言えば僧・俊寛ら3人の流刑地であったことを思い出しました.
 子どものころに『源平盛衰記』という本を読み、流刑された地が「喜界ケ島」と、示されていたかとおもう.
 もちろん、遠い日の記憶であるけれども.

 ところで、鎌倉時代のその時期に、流刑地で南海の孤島が選ばれていたことの意味.

 喜界ケ島 そのころ政権の要人に一般的知識であった理由.
 京都の要人、その流刑地.そこまで連行する理由はなぜか.
 喜界島と喜界ケ島、同じなのか違うのか.
 連れて行った船員は無事に届け、後日、うち二人を送還させるため迎えに行くが、確実にゆけるほど情報が共有されていた要素.

 京都の要人の流刑地は、南海の孤島と決まっていたとしても、あまり送り込まれたケースを聞かぬも.

 いろいろ考えて見るが、不思議.そこは「時代の常識」に暗いことのアカシ.

 以下に発見.
 http://www5.plala.or.jp/obara123/u1102syuka.htm
 ●流刑地について=俊寛が流された鬼界ヶ島の場所
 1)鹿児島県大島郡喜界町の喜界島、
 2)鹿児島県鹿児島郡三島村の硫黄島、
 3)長崎県長崎市の伊王島など諸説

 ひそかに島を脱出したという説も多く、鹿児島県阿久根市や出水市、佐賀県佐賀市などにも俊寛に関する言い伝えが残っている。