帰船風景(大正11年当時) 『釧路市のあゆみ』(昭和34年)掲載。
 帰船風景(大正11年当時) 『釧路市のあゆみ』(昭和34年)掲載。

 「写真帳」の「漁業」で紹介。釧路川河口を幣舞橋側からのぞんでいる。
 写真の意味する点は、「帆を風にうけ、港に帰る川崎舟」ということになる。
 帆を張っているのは帰港しているタラ、カレイなどの操業舟。右岸には帆柱だけのすでに帰帆している舟もみかける。 
 手前に櫓で漕ぐ舟も航行している。こちらは「南部舟」。
 
 二つの舟には、舟型も動力も、そして漁業種目も差異がある。
 手前の「南部舟」は、沿岸漁業のサケマス引き網漁業など回遊魚やコンブ採藻漁業を営む。
 動力は「櫓 ろ」で、船底は幅広で、平滑な構造。前浜で操業する底の平滑な構造。

 帰帆する川崎舟は、沖合16ー20キロ先まで帆走する。
 川崎舟は越後・新潟の漁業者が持ち込み、タラ・カレイ・メヌケ・キチジなど、惣菜魚の漁獲に従事した。
 沖合を漁場とする漁船で、漁場では舟自体が「網を引く手繰り網 てぐりあみ」漁業の「漁網曳航の機能」が見逃せない。
 網を曳き、漁獲物を沖合から港に搬送し、漁港と漁場を「帆に風をうけて往返する」、すぐれもの。

 川崎舟の船底は、鋭角。軸に側板を貼り付けて「水切りが良く」「抵抗を最小限」にする構造。
 大正2年8月。暴風雨のあおりで、川崎舟は河口まで帰帆しながら遭難。63名の犠牲者を産んだ。
 以来、漁船に「焼き玉エンジン」を搭載する「動力船」が導入される。
 川崎舟は資源の属性から通年操業を可能とした。

 川崎舟の導入も、沖合漁業の開発も、釧路港が「“漁業基地”と呼ばれる“漁港漁業”発展」の基盤をつくる。
 写真は「のどか」「牧歌風」「素朴な」漁港に見えるも、エネルギーの蓄積をおもわせる一枚。