まだ見ぬあなたとのこと
いつだったかの秋の夜、こんなことがあった。
“天然の日本。光篇”を見終わっていきなり号泣された。
号泣が激しくなりソファを叩きのたうち回った。
30分くらいつづいただろうか。
なんどもなんども悔しいと吐き捨てながら。
気が狂ってしまったのかと思って怖くなりかけたことをあざやかに憶えている。


その仕事は、その夜から十年も前のものだった。
狂乱の後、ながい沈黙があった。
そして、許せないといわれた。十年前に、このしごとをあなたがして、
そこに自分がいなかったことが口惜しいのだ、と。
わけがわからないままにどこかで理解している自分もいた。
そのことに気づいた時、おれも慟哭した。
そういうことが、たしかに、あった。
過分な感想や身に余る反応をいくつももらってきたが、
あんなふうに物理的な変化に相対したのは、ただ一度だけ。
天然の日本がdigitalJapanesqueへと踏み出した、
あれがほんとうのきっかけだったような気がする。
【視覚】について書かれた短いコトバをなんども読み直しながら、
digitalJapanesque、ほんとうに扉を開けたのだと、得心した。
その小さな弾みとなっていたのが、
たぶん茂木健一郎の【夕日】への渇望と、それに続く風景論だっのかもしれない。
【終わりから始める】というsunsetシリーズは、
ほんとうに始まったのだ。そう確信。


メディアのトップページの冒頭に
【まだ、わたしたちがお会いしたことのないあなたへ】
と書いた。そのお目にかかったことも言葉を交わしたこともない
未知の【あなた】との間で発生したとしか思えない
幻影のようなクロスディゾルブ。そんなふうに今夜は思った。
十月十五日上弦の夜。


@kenichiromogi
虫がさ、一生懸命鳴いているよ。もうすぐ死んじゃうよ、
もうすぐ死んじゃうよ、って鳴いているんだよ。

@kenichiromogi: 車窓の景色を眺めていた。美しいかたちの山があった。
こんな山が近くにあって、春も夏も、
朝も夕暮れも、晴れも雨もそれを眺めて時が過ぎていくような、そんな暮らしをしてみたい。

@kenichiromogi
さいごに夕陽をじっくり見たのはいつだったかなあ。

@kenichiromogi
ざわ(4)夕暮れ、街を歩いているときに、何とも言えぬ不安に包まれることがある。
自分を包んでいる社会的文脈がほぐれ、とけ、
たった一人で世の中に放り出されているかのように感じるのだ。
そのような時、胸の奥が、甘美にざわざわとし始めるのがはっきりとわかる。

@kenichiromogi
ざわ(7)希望と不安は、とても近いところにある。
不安が希望の母なのであり、その逆ではない。
まずは自分を胸がざわざわする不安の中に置かなければ、希望も生まれようがないのだ。

@kenichiromogi
ざわ(8)南の島に着く。ジャケットを脱ぎ、靴下を放り投げ、時計を外す。
次第に裸になっていく。風や太陽と友だちになる。
あの時のように、自分を包んでいる社会的文脈を一つひとつ脱いでいくことで、
初めて私たちは「不安=希望」の夕暮れ時にたどり着ける。