2009 09/17 22:01
Category : 日記
●松岡正剛「花鳥風月の科学」中央公論社より抜粋
この本は花鳥風月を中心とした日本文化のなかの重要な十のテーマをとりあげ、それ
をいろいろな角度から照明をあててみようというものです。
それとともに、日本文化のなかのいくつかのイメージの起源と変遷を探り、そのイメー
ジが分母と分子に分かれていく多様なプロセスを追いかける目的をもっています。ま
た、花鳥風月にちなんだ科学的なイメージのアリバイについても、多少の応援団を繰
り出します。
なぜこのようなことを試みるかというと、われわれ自身が日本の歴史文化がつくって
きたイメージの発生現場がわからなくなっているように思われるからです。また、そ
の使い方がわからない。そこで多少の筋道をつけてみたい。それが第一の理由です。
第二には、日本について、われわれは適切な言葉で説明する勇気を失ってしまってい
る。とくに海外に向けて卑屈になりすぎたり、居丈高になりすぎている。これは日本
文化の特色を説明できるグローバルで鮮明な論理が極度に不足しているためだと思わ
れます。
一方でグローバルなイメージが氾濫し、他方ではローカルなイメージが不足する。む
ろん、その逆のこともある。この調整はなんとも難儀なことなのですが、何かひとつ
ながりの手がかりがあれば試みられないこと出もないような気がします。私は、その
手がかりを「花鳥風月」という、いかにも日本的で一般的な言葉に求めてみたのです。
花鳥風月とは日本人のコミュニケーション様式のためのソフトプログラム、あるいは
ユーザーインターフェイスだったのではないか。いったい何のための花鳥風月のコミュ
ニケーションで、何をあらわす花鳥風月のソフトウェアかというと、たいていは人々
が「景気」を盛りあうためでした。
しかし、昨今は、「景気」という言葉がもっぱら経済用語としてしか通用しなくなっ
ている。もともと景気という概念は山水画などでもつかわれていた用語です。
景気は自然や世間のうねりにも日々の生き方にも見え隠れしていた動詞であって、そ
れを丹念に掬ってみるとき、花鳥風月のしくみが有効なプログラムとしてつかわれて
きたわけでした。どうしたら景気を感じられるのか、それを工夫することが花鳥風月
を重視する本質だったのです。
日本の社会制度や風俗文化あるいは言葉づかいに、海外の要素がどのように混入して
いるかという研究もむろん大事です。しかし、万葉集の言葉づかいに大陸半島からの
影響を指摘できたとしても、それだけでは万葉社会文化の意味の説明にはならないよ
うに、海外要素指摘主義というのも、どうもしっくりしない。だいたい日本のみなら
ず、どんな国の社会文化だって海外からの文物導入と影響をうまく生かしてきたので
す。
観音菩薩は古代ペルシャの、万葉集は古代朝鮮「郷歌」の、初期修道院のしくみは東
ゴート王国の、千夜一夜物語はインドの「パンチャタントラ」の、株式会社の前身コ
ンパニアはイスラム経済システムの、マイセンの陶器は中国や九州の、新聞連載小説
はトルコの、ピカソのキュビズムはアフリカの、アメリカの百貨店にティールームが
できたのは東京の百貨店の、それぞれ文化混入によって成立したのです。ゲーテにとっ
てのドイツは、それ以前のプチ・フランス主義からの脱却を師のヘルダーや友のシラー
とともに成しとげることでした。
そんなぐあいだから、いちいちお里を調べあうだけでは社会文化の本質は見えてはき
ません。とくに日本はコードを輸入してモードに編集するのがたくみな歴史をもって
きたので、日本の問題はおおむね「氏より育ち」にあります。日本はいま国際的にさ
まざまな《問われる時代》というものを迎えていますが、それは必ずしも「氏=コー
ド」が問われているのではなく、「育ち=モード」が問われているのです。
●「花鳥風月の科学」文庫判解説から いとうせいこう
「花鳥風月」を《日本人が古来から開発してきたマルチメディア・システム》として
とらえる。それが本書の最も重要なねらいである。
つまり自然は、いや厳密に言えば外界は、すべて日本人にとってのインターフェイス
であり、そこに一瞬没入するだけで世界はありとあらゆる変化をし、ゆえに「景気」
が立ち上がってくる。むろん、没入した人間もしかりであって、このとき主体も客体
もない。あるのは「景気」ばかりである。
山、道、神、風、鳥、花、仏、時、夢、月と十章に分かたれてはいても、「花鳥風月」
がマルチメディア・システムである以上、すべての要素は複雑にからみあい、互いに
アクセスをし合いながら、その組み合わせ次第で様相を変え、つまりは我々自身を変
える。
現代哲学でいうところの「生成」にも若干似た概念である「景気」はしかし、「生成」
が持つある種の暑苦しさを逃れ、同時に主体をも「景色化」してしまうという断片化、
みしくは溶融を旨とする。となれば、むしろ最も近いのはインターネットのようなも
のだろう。
松岡正剛の言うマルチメディア・システムはもっと精妙で、科学的で、また気宇壮大
でもあるような仕組みのことである。五感と、それが培ってきた文化の層が一挙に立
ち上がってくるようなシステム。ないしは、一挙に消え去って、あとにはかすかな残
り香だけが漂うようなシステム。それがすなわち「花鳥風月」にほかならないのだ。
人類の脳と身体は、このようにインターネットを越えたネットワーク力やシステム生
成能力をすでにして持っている。逆に言えば、その力の一部がようやく外在化された
のがインターネットなのであり、松岡正剛が本書を通して夢見つづけるのは、《来る
未来に実現するかもしれないような、その人類の力のすべてをマルチメディア化する
科学的装置》ではなかろうか。
この本は花鳥風月を中心とした日本文化のなかの重要な十のテーマをとりあげ、それ
をいろいろな角度から照明をあててみようというものです。
それとともに、日本文化のなかのいくつかのイメージの起源と変遷を探り、そのイメー
ジが分母と分子に分かれていく多様なプロセスを追いかける目的をもっています。ま
た、花鳥風月にちなんだ科学的なイメージのアリバイについても、多少の応援団を繰
り出します。
なぜこのようなことを試みるかというと、われわれ自身が日本の歴史文化がつくって
きたイメージの発生現場がわからなくなっているように思われるからです。また、そ
の使い方がわからない。そこで多少の筋道をつけてみたい。それが第一の理由です。
第二には、日本について、われわれは適切な言葉で説明する勇気を失ってしまってい
る。とくに海外に向けて卑屈になりすぎたり、居丈高になりすぎている。これは日本
文化の特色を説明できるグローバルで鮮明な論理が極度に不足しているためだと思わ
れます。
一方でグローバルなイメージが氾濫し、他方ではローカルなイメージが不足する。む
ろん、その逆のこともある。この調整はなんとも難儀なことなのですが、何かひとつ
ながりの手がかりがあれば試みられないこと出もないような気がします。私は、その
手がかりを「花鳥風月」という、いかにも日本的で一般的な言葉に求めてみたのです。
花鳥風月とは日本人のコミュニケーション様式のためのソフトプログラム、あるいは
ユーザーインターフェイスだったのではないか。いったい何のための花鳥風月のコミュ
ニケーションで、何をあらわす花鳥風月のソフトウェアかというと、たいていは人々
が「景気」を盛りあうためでした。
しかし、昨今は、「景気」という言葉がもっぱら経済用語としてしか通用しなくなっ
ている。もともと景気という概念は山水画などでもつかわれていた用語です。
景気は自然や世間のうねりにも日々の生き方にも見え隠れしていた動詞であって、そ
れを丹念に掬ってみるとき、花鳥風月のしくみが有効なプログラムとしてつかわれて
きたわけでした。どうしたら景気を感じられるのか、それを工夫することが花鳥風月
を重視する本質だったのです。
日本の社会制度や風俗文化あるいは言葉づかいに、海外の要素がどのように混入して
いるかという研究もむろん大事です。しかし、万葉集の言葉づかいに大陸半島からの
影響を指摘できたとしても、それだけでは万葉社会文化の意味の説明にはならないよ
うに、海外要素指摘主義というのも、どうもしっくりしない。だいたい日本のみなら
ず、どんな国の社会文化だって海外からの文物導入と影響をうまく生かしてきたので
す。
観音菩薩は古代ペルシャの、万葉集は古代朝鮮「郷歌」の、初期修道院のしくみは東
ゴート王国の、千夜一夜物語はインドの「パンチャタントラ」の、株式会社の前身コ
ンパニアはイスラム経済システムの、マイセンの陶器は中国や九州の、新聞連載小説
はトルコの、ピカソのキュビズムはアフリカの、アメリカの百貨店にティールームが
できたのは東京の百貨店の、それぞれ文化混入によって成立したのです。ゲーテにとっ
てのドイツは、それ以前のプチ・フランス主義からの脱却を師のヘルダーや友のシラー
とともに成しとげることでした。
そんなぐあいだから、いちいちお里を調べあうだけでは社会文化の本質は見えてはき
ません。とくに日本はコードを輸入してモードに編集するのがたくみな歴史をもって
きたので、日本の問題はおおむね「氏より育ち」にあります。日本はいま国際的にさ
まざまな《問われる時代》というものを迎えていますが、それは必ずしも「氏=コー
ド」が問われているのではなく、「育ち=モード」が問われているのです。
●「花鳥風月の科学」文庫判解説から いとうせいこう
「花鳥風月」を《日本人が古来から開発してきたマルチメディア・システム》として
とらえる。それが本書の最も重要なねらいである。
つまり自然は、いや厳密に言えば外界は、すべて日本人にとってのインターフェイス
であり、そこに一瞬没入するだけで世界はありとあらゆる変化をし、ゆえに「景気」
が立ち上がってくる。むろん、没入した人間もしかりであって、このとき主体も客体
もない。あるのは「景気」ばかりである。
山、道、神、風、鳥、花、仏、時、夢、月と十章に分かたれてはいても、「花鳥風月」
がマルチメディア・システムである以上、すべての要素は複雑にからみあい、互いに
アクセスをし合いながら、その組み合わせ次第で様相を変え、つまりは我々自身を変
える。
現代哲学でいうところの「生成」にも若干似た概念である「景気」はしかし、「生成」
が持つある種の暑苦しさを逃れ、同時に主体をも「景色化」してしまうという断片化、
みしくは溶融を旨とする。となれば、むしろ最も近いのはインターネットのようなも
のだろう。
松岡正剛の言うマルチメディア・システムはもっと精妙で、科学的で、また気宇壮大
でもあるような仕組みのことである。五感と、それが培ってきた文化の層が一挙に立
ち上がってくるようなシステム。ないしは、一挙に消え去って、あとにはかすかな残
り香だけが漂うようなシステム。それがすなわち「花鳥風月」にほかならないのだ。
人類の脳と身体は、このようにインターネットを越えたネットワーク力やシステム生
成能力をすでにして持っている。逆に言えば、その力の一部がようやく外在化された
のがインターネットなのであり、松岡正剛が本書を通して夢見つづけるのは、《来る
未来に実現するかもしれないような、その人類の力のすべてをマルチメディア化する
科学的装置》ではなかろうか。