1962年6月のBesame mucho
をリピート。しかし初期のビートルズはなんとも弾んでいるもんだな。その後、菱沼コレクションのBesame mucho集を続けて聴きながら、明日からの編集工程を数パターンシミュレーション。どう間違えても大きな問題はなし、と見切れたのでアップ。今夜は早寝することにした。空気を入れ替えようと窓を開けると寒気がした。

webの古いムービーを見始めて一時間経過。
光、風、レガシー…
この頃の熱はどこから来ていたのか。
digitalになっただけで、おれはここを越えられるのか。
ふぐや山形すら、越えていけるのか。
おれはほんとうに、
あんな家族の話におもしろがって取り組めているのか。
苛立ちのすべては、「家」などという守りの権化に
からめとられている情けなさからくるのではないのか。
ほんとうは、こんなところからいちばん遠い場所にしか
行き場がないことをわかっていながら
臆病になっているのではないか。
断ち切るべきは足下そのものじゃねえのか。
いまつくっているもの。つくろうとするものを
おれはほんとうに見たいと思えているのか。

窓を開ければ
明かりは見えるのか。
暗渠だけがひろがっているのではないのか。

小夜子は、いくつになったのか。
あのマンションの4階で
まだ生きているのだろうか。
ドアを開ける亭主の鍵の音を聴きながら
階下の道を去っていく若い男を
底の見えない笑みを浮かべ見送っているのだろうか。

まだ、鉄火場で
不埒な啖呵を切ったりしているのだろうか。

あの夜に
東京を捨てていたら
今夜はどんな夜になっていたのか。

野垂れ死んでいることと
生きのびていることの違いは何処にあるのか。