「ひとり寝の子守歌」
加藤登紀子はしかし、「ひとり寝の子守歌」と「百万本のバラ」につきるな。彼女がまだデビューしてまもない頃、新宿のスンガリでコンパをしながら、藤本さんの噂話を小声でした頃を思い出す。日向翔。吉本が講演でせせら笑った世界=一国同時…。過渡期世界…。もし失敗したら、おれは温泉やくざにでもなるよ、とお茶の水明大学館で便所のバケツでもやしキャベツを炒めて喰いながら、笑った男。裁判で住所はと問われ、全世界ですと答えた男。ヒュウガショウ。藤本さんの門下生。その藤本をしのびながら歌ったという「ひとり寝の子守歌」と「百万本のバラ」の間に横たわる百億の夜と昼。藤本はもう他界し、17歳のおれを頬ずりしてくれた田宮もまた異界。あんな目をした男たちを見なくなってどれくらいたつのか。おれの目は、他人の目にどんなふうに映っているのか。どんなふうにもすでに映ってはいないのか。おんな相手に仙花紙散らして後朝の歌でごまかすしか道はないのか。このまま衰退していくだけなのか。たかのしれた小銭稼ぎに一喜一憂してみせながら、おれはまだまだ、などとひとりごちて終わっていくしかないのか。サーチライトに照らされた秋山のあの小さいカラダがアンドレアジャイアントのように見えた新宿nightが幻灯芝居のようにしか思い出せない。脳の細胞は三日で新しく生まれ変わるというが、なぜすべての記憶も拭い去ってくれないのか。どうして中途半端なカスのような記憶だけが残されているのか。ひとりで生きてきたわけでもないのに、深夜になるとひざ小僧を抱えて寝ているような気分に襲われてしまうのはなぜなのか。