ムーランルージュとさいごのゆめときぼう
> 夢と希望を与える最後プロジェクト…

ちょうどいまWOWOWでムーランルージュを観ていたところ。
二年前の公開時にぼろぼろ泣きながら観たことを思い出し
いまもしんみりしていたところです。

さいごのゆめときぼう。

なんて、いいじゃないですか。
なにもそこまで、とは思わぬでもないけど
ま、今夜はセンチメンタルな春の夜となったので…

この国の選択肢は
ほんとうは二つあるんだよね。いま。
一つはリニアが象徴する世界。これは進化し発展する世界。
もうひとつはその真逆。
つまりスローライフ。

これはじつは融合も両立もしないのではないのか。
この一ヶ月、そんな思いが濃くなっています。

おまえはどっちか、と自問しても
明快な答えにたどり着けないあたりが、混迷のもとなんだよね。

どうにも腰が定まらない感じが続いているのも
たぶんそのあたりが原因なんだろうと思っています。

だからどうした
と言うわけでもないけど、深夜なのと
ひさしぶりに観たムーランルージュと
「最後の夢と希望」つーのに動揺したかな。

明日、また横浜で照明のテストに立ち会うので
午後にでも電話します。
そして、日曜に書きます。



おまけの引用をひとつ***********************************

「ないちゃだめ」
パンドラがとほうにくれていると、小さな声がしました。
「だいじょうぶよ、わたしがついているから」
声は箱の中からきこえます。
「あなたはだあれ?」
パンドラはおそるおそるたずねました。
「わたしは『きぼう』です。
人間が『わざわいに』まけないよう、
おてつだいをします。
くるしいとき、かなしいとき、こまったときは、
どうかわたしをよんでください。
わたしはいつも、あなたたちの心の中にいます」
パンドラは「きぼう」のおかげでげんきをとりもどし、
またエピメテウスとなかよくくらしはじめました。
「きぼう」はパンドラだけのものではありません。
わたしたちが、くるしいとき、かなしいとき、こまったときに、
くじけず、あきらめずにいきていけるのは、
心の中の「きぼう」が、なぐさめ、はげましてくれるからなのです。
ほら、ごらんなさい。
雪がふり、風がふきつける、寒い冬。
でも、春はもうそこまできているのです。
 歌野晶午「世界の終わり、あるいは始まり」


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プロローグとラストのタイプを叩く2カット
後半のタンゴ
この二つのシーンがキモだったことを改めて確認。
好みもあろうが、古典的な手法ではあるが
サンドイッチのみずみずしさはたまらない。
高校時代にシュトルムの「みづうみ」を呼んで以来のおれの物語的トラウマ。


ま、いいじゃねえか。