夕べの余韻。
六本木地下スタジオで。
ウィズ・ダインの編集続行中。

DVCの小さな液晶画面でいま渡辺から見せてもらったが、
魂をわしづかみにされたような感覚あり。

森田童子の《春爛漫》をあてたが、
さっき菱沼さんから来たメールによると、
森田の伝説のコンサートのライフ照明を担当したのが彼だったらしい。
まだ、その仕事を越えられない、とあったが、それは謙遜だとしても、
彼とは妙に重なり合うところが多い
ことにあらためて気づかされる。

むかし読んだ太宰治のどの短編だったかに、

  《明るさは滅びの…》

とかいう一節があった。
森田童子。たしかに暗い。
一人で聴いていると、もう終わってもいいな、
そんな想いが満ちていくことあり。

でもいいんじゃねえのか。


人は、いつかは終わる。もの。


あの散ってくる緋色の桜を顔に浮け、
樹冠のその先にひかりかがやく月を眺めていれば、
凡人も、また、今西行。

気の利いたせりふの一つも吐きたくもなる。


桜の妖しさは、古来からそこだけにある。


数日で散ることを知りながら
乞食のような青いシートに円陣を組んで
上を観ることもなく、ひたすらうつむいて飲み食らっている姿を見ていると、
寂しいというのではなく、虚脱感だけが残る。

震災直後のロケハンで、伊丹から芦屋にかけて、家々の屋根を覆うブルーシートの群れがまだ鮮やかに残っている。

避難なら、いたしかたないあのくそのような青も、
遊びの世界にあっては鼻白むばかりである。