2020 07/01 18:18
Category : 日記
大阪の阿倍野区に安倍晴明神社があります。
京都の晴明神社が安倍晴明の邸宅付近(実際はブライトンホテル近く)で祀られているのに対して、大阪の安倍晴明神社は阿倍野と言う地名からも安倍晴明の生誕地として祀られています。
そもそも、安倍晴明の生誕地には幾つか説があるのですが、大阪説・讃岐説・茨城説等があります。
この中で最も有力と言われるのが、大阪説だそうです。
「葛乃葉伝説」によると、晴明の父は大阪市阿倍野区阿倍野の出身とされています。
千年以上も昔に、阿倍野に「安倍保名」(あべのやすな)という男が住んでいました。
あるとき、安倍保名が和泉の信田明神にお参りをして帰ろうとした時に、狩りで追われた白狐が逃げてきたので、保名はこれをかくまってあげました。
その後、白狐は「葛乃葉」と言う女性に身を変えて保名のところへ来ます。
保名と葛乃葉はやがて愛し合い、結婚して阿部神社の近くに住み、やがて子供が生まれると「安倍童子」(晴明の幼名)と名付けました。
その後に、葛乃葉は白狐の正体がばれてしまい、有名な子別れで「恋しくば尋ね来て見よ 和泉なる信太の森のうらみ葛の葉」の歌を残して去っていくのですね。
その後に、安倍童子は成長して安倍晴明と言う天才陰陽師へとなるわけですね。
これは、安倍晴明の凄さを伝説化するために、普通の人ではなく白狐と人との間に出来た子で不思議な力を持っていたとした伝説でしょうね。
晴明が阿倍野の出身というのは、安倍晴明神社の記録としても残っているそうです。
安倍晴明神社に伝わる「安倍晴明宮御社伝書」には、安倍晴明が亡くなったことを惜しんだ上皇が、生誕の地に晴明を祭らせることを晴明の子孫に命じ、亡くなって二年後の寛弘4年(1007年)に完成したのが、安倍晴明神社であると記載されているそうです。
その安倍晴明神社は、近くに鎮座する阿倍王子神社の境外摂社と言う位置にあります。
祭神の安倍晴明はこの地で生まれたと伝えられて祀られているそうです。
先にも書いたように社伝の「晴明宮御社伝書」によると創建は1007年(寛弘4年)で、代々に晴明の子孫と称する保田家が社家として奉仕し、江戸時代には代々の大坂城代が参拝にくるほど有力な神社であったそうですが、幕末には衰微し、明治時代には小さな祠と石碑のみになってしまったと言います。
しかし、明治時代末期になると復興計画が持ち出されて、1921年(大正10年)には阿倍王子神社の末社として認可されました。
やがて、社家の子孫である保田家より旧社地の寄進を受け、1925年(大正14年)に現在の社殿が竣工したそうです。
また、境内には泰名稲荷神社と安倍晴明の父の保名の名を付けた稲荷神社も祀られています、安倍晴明と稲荷社はその葛乃葉伝説との関わりもあり関連付けられて祀られていることも多いですね。
現在の境内には安倍晴明の等身大の銅像が建ち、「産湯井の跡」(晴明の産湯に使われた井戸)、「葛之葉霊狐の飛来像」、「安倍晴明誕生地の石碑」等が設けられています。
戦時中には、境内に空襲の焼夷弾が落ちたそうですが爆発せずに済んだために、本殿は被災をまぬがれたそうです。
このために、地元では「晴明さんが守って下さった」と評判になり、以来災難除けの神様としても信仰を集めていると言います。
最近は安倍晴明人気もあり、遠方からも若い方が参拝に来られることも多いようです。
京都の晴明神社が安倍晴明の邸宅付近(実際はブライトンホテル近く)で祀られているのに対して、大阪の安倍晴明神社は阿倍野と言う地名からも安倍晴明の生誕地として祀られています。
そもそも、安倍晴明の生誕地には幾つか説があるのですが、大阪説・讃岐説・茨城説等があります。
この中で最も有力と言われるのが、大阪説だそうです。
「葛乃葉伝説」によると、晴明の父は大阪市阿倍野区阿倍野の出身とされています。
千年以上も昔に、阿倍野に「安倍保名」(あべのやすな)という男が住んでいました。
あるとき、安倍保名が和泉の信田明神にお参りをして帰ろうとした時に、狩りで追われた白狐が逃げてきたので、保名はこれをかくまってあげました。
その後、白狐は「葛乃葉」と言う女性に身を変えて保名のところへ来ます。
保名と葛乃葉はやがて愛し合い、結婚して阿部神社の近くに住み、やがて子供が生まれると「安倍童子」(晴明の幼名)と名付けました。
その後に、葛乃葉は白狐の正体がばれてしまい、有名な子別れで「恋しくば尋ね来て見よ 和泉なる信太の森のうらみ葛の葉」の歌を残して去っていくのですね。
その後に、安倍童子は成長して安倍晴明と言う天才陰陽師へとなるわけですね。
これは、安倍晴明の凄さを伝説化するために、普通の人ではなく白狐と人との間に出来た子で不思議な力を持っていたとした伝説でしょうね。
晴明が阿倍野の出身というのは、安倍晴明神社の記録としても残っているそうです。
安倍晴明神社に伝わる「安倍晴明宮御社伝書」には、安倍晴明が亡くなったことを惜しんだ上皇が、生誕の地に晴明を祭らせることを晴明の子孫に命じ、亡くなって二年後の寛弘4年(1007年)に完成したのが、安倍晴明神社であると記載されているそうです。
その安倍晴明神社は、近くに鎮座する阿倍王子神社の境外摂社と言う位置にあります。
祭神の安倍晴明はこの地で生まれたと伝えられて祀られているそうです。
先にも書いたように社伝の「晴明宮御社伝書」によると創建は1007年(寛弘4年)で、代々に晴明の子孫と称する保田家が社家として奉仕し、江戸時代には代々の大坂城代が参拝にくるほど有力な神社であったそうですが、幕末には衰微し、明治時代には小さな祠と石碑のみになってしまったと言います。
しかし、明治時代末期になると復興計画が持ち出されて、1921年(大正10年)には阿倍王子神社の末社として認可されました。
やがて、社家の子孫である保田家より旧社地の寄進を受け、1925年(大正14年)に現在の社殿が竣工したそうです。
また、境内には泰名稲荷神社と安倍晴明の父の保名の名を付けた稲荷神社も祀られています、安倍晴明と稲荷社はその葛乃葉伝説との関わりもあり関連付けられて祀られていることも多いですね。
現在の境内には安倍晴明の等身大の銅像が建ち、「産湯井の跡」(晴明の産湯に使われた井戸)、「葛之葉霊狐の飛来像」、「安倍晴明誕生地の石碑」等が設けられています。
戦時中には、境内に空襲の焼夷弾が落ちたそうですが爆発せずに済んだために、本殿は被災をまぬがれたそうです。
このために、地元では「晴明さんが守って下さった」と評判になり、以来災難除けの神様としても信仰を集めていると言います。
最近は安倍晴明人気もあり、遠方からも若い方が参拝に来られることも多いようです。