綾戸國中神社
京都は祇園祭の最中ですが、祇園祭は八坂神社のお祭りであると共に、所縁のある社寺として、元祇園梛神社・粟田神社・神泉苑などがありますが、南区にある綾戸國中神社も大きな関わりのある神社です。

綾戸國中神社は、昔は綾戸宮と國中宮の二社でありましたが、現在では合祀されて、左に綾戸宮で右に國中宮が鎮座されています。

社伝によれば、第26代継体天皇の世には大堰川(桂川)七瀬の祓神として大井社でありましたが、第62代村上天皇の天暦9年(965年)に綾戸社に改称されたそうです。

また、國中社は本来蔵王の杜(現光福寺蔵王堂)に社地があり、中世には牛頭天皇社とも呼ばれていました。

古くには久世郷全体の郷社であったようですが、戦国時代に、國中社が綾戸社の境内に移され、以来綾戸國中神社と称するようになったそうです。


さて、初めに書きましたように、綾戸國中神社は祗園祭には欠かせない重要な役割を担う神社であります。

その昔、神代の頃の話ですが、「素盞鳴尊」(スサノオノミコト)が山城の訓世(くぜ)の郷がまだ一面湖水に覆われていた時に天から降臨し、水を切り流し土地を開き、広々とした平野とされたのでした。

そして、その國の中心と思われる所に、「符」(ふ)を遣わし給いました。

その「符」とは素戔嗚尊の愛馬である天幸駒の頭を自ら彫刻して、新羅に渡海する前に形見として遣わされたのでした。

この形見である「符」が國中社の御神体であり、訓世の郷から祗園祭に供奉する稚児が、胸に御神体である駒の頭の彫刻を棒持することから「駒形稚児」と言われるそうです。

こう言う伝説もあり、この「駒形稚児」と祗園祭との関係は深い物があります。

「國中社は素盞鳴尊の荒御魂なり。八坂郷祗園社は素盞鳴尊の和御魂なり。依って一体にして二神、二神にして一体で神秘の極みなり。」

と古文書に記されているそうです、

そして、「御神幸の七月十七日に訓世の駒形稚児の到着なくば、御神輿は八坂神社から一歩も動かすことならぬ。若し此の駒故なくしてお滞りあるときは、必ず疫病流行し人々大いに悩む。」

とも伝えられていると言います。

つまり、祇園祭の7月17日の山鉾の巡行後に行われる御神幸と呼ばれる八坂神社から神霊を乗せた御神輿を御旅所へお迎えする神事で、駒形稚児が到着するまでは御神輿を一歩も動かすことは出来ません。

もしも、駒形稚児が不在などの不測の事態が事あるときは、疫病が流行るとされています。

そう言う理由から、御神体の駒形を奉持することで駒形稚児は神位であり、神そのものとされ、長刀鉾の稚児も下馬する八坂神社境内を騎馬のままで南楼門より参入し拝殿を三巡の後で、一歩も地を踏むことなく本殿に昇殿し祭典に臨むとされています。

そして神幸祭、還幸祭では中御座神輿(素盞鳴尊)の先導を務める事になるのです。

こうして、綾戸國中神社の久世駒形稚児として、祇園祭に不可欠な大きな関わりがあるのです。

こう言う綾戸國中神社ですが、綾戸國中神社には全国でも唯一とされる事が二つあるのだそうです。

1つは國中社の御神体が駒形であることです。

またもう1つは新幹線開通のため神社が移転を余議なくされた事だそうです。

神社があった敷地に新幹線が通る事になり、移転を余儀なくかなりされたそうで、これも珍しい事と言えるそうです。