2018 06/10 04:31
Category : 日記
京都の伏見区にある伏見稲荷大社と言えばお稲荷さんの総本山として知られているが、その伏見稲荷大社から石峯寺へと向かう南東方面に200メートルほど行くと、墓地のなかに「ぬりこべ地蔵」と書かれた小さなお堂がある。
小さな地蔵堂であるが、堂前には「ぬりこべ地蔵」と書かれた石標が建てられており、お堂の前には庇が造られておりたくさんの提灯が吊るされている。
「ぬりこべ地蔵」と言う不思議な名前であるが、この名前の由来は土壁で「塗りこんだ」お堂に安置されていたことから「ぬりこべ地蔵」と呼ばれていたからだと言われている。
そして、「ぬりこべ」が病気を「塗りこべる」から「封じ込める」の意味に取られて、病気を封じ込める御利益があると言われるようになったようである。
特に「歯痛」や歯の病気に御利益が篤いお地蔵様として、多くの信仰を集めていると言う。
この「ぬりこべ地蔵」の特色として、直にお参りしなくても葉書や手紙に祈願を書いて送るだけでも御利益があるとされ、国内各地から多くの子供達や歯の病で苦しむ人からの便りが奉納されているようだ。
嘘か本当か、宛先に「京都市伏見区 ぬりこべ地蔵様」と書くだけでも配達されると聞く。
また、お堂の前には紙で包んだ塗り箸が結び付けられており、歯痛平癒の祈願に訪れた人は、その塗り箸をいただいて帰ってその箸で食事をし、歯痛が治るとその箸を川に流して今後は塗り箸を使わないようにする。
そして、お礼に紙に包んだ塗り箸を新たに奉納する慣わしになっているそうだ。
ぬりこめ地蔵と言うことで、塗り箸に歯痛を「塗りこめる・封じ込める」と意味から生まれた風習だと思われる。
お地蔵様は、高さは1メートルほどで、右手に錫杖を持ち、左手には宝玉を置いた姿で、お顔は鼻が少し欠けているが親しみの持てる穏やかな表情である。
このぬりこべ地蔵は、元は違う場所にあったようだ。
明治3年(1870年)の深草村絵図には違った場所に記されていると言う。
現在の京都府警察学校の辺りの「そとわの墓地」にあったようで、絵図には「ヌリコヘ 墓」とあり、その後に移転されたと思われる。
実は、この移転には深草の地にやってきた旧陸軍第十六師団が関係しているそうで、明治末期から一帯には軍関係の施設が立ち並ぶようになった。
そして、警察学校がある場所に兵器庫を造るため、お地蔵様は墓地と供に「立ち退き」を迫られたのだった。
その際、地蔵を現在の場所に運んだ村人の一人が、故人となられた木村藤太郎さんだそうでお地蔵様を自ら背負って運ばれたと言う。
そういう縁もあって、木村家の人たちが現在もお地蔵様の世話を続けているのだそうだ。
京都にも歯痛に御利益のあるお地蔵様や神社なども多くあり、昔からそれだけ多くの人が歯の病気に苦しめられてきた証だと思う。
毎年6月4日には、法要が行われているようだ。
小さな地蔵堂であるが、堂前には「ぬりこべ地蔵」と書かれた石標が建てられており、お堂の前には庇が造られておりたくさんの提灯が吊るされている。
「ぬりこべ地蔵」と言う不思議な名前であるが、この名前の由来は土壁で「塗りこんだ」お堂に安置されていたことから「ぬりこべ地蔵」と呼ばれていたからだと言われている。
そして、「ぬりこべ」が病気を「塗りこべる」から「封じ込める」の意味に取られて、病気を封じ込める御利益があると言われるようになったようである。
特に「歯痛」や歯の病気に御利益が篤いお地蔵様として、多くの信仰を集めていると言う。
この「ぬりこべ地蔵」の特色として、直にお参りしなくても葉書や手紙に祈願を書いて送るだけでも御利益があるとされ、国内各地から多くの子供達や歯の病で苦しむ人からの便りが奉納されているようだ。
嘘か本当か、宛先に「京都市伏見区 ぬりこべ地蔵様」と書くだけでも配達されると聞く。
また、お堂の前には紙で包んだ塗り箸が結び付けられており、歯痛平癒の祈願に訪れた人は、その塗り箸をいただいて帰ってその箸で食事をし、歯痛が治るとその箸を川に流して今後は塗り箸を使わないようにする。
そして、お礼に紙に包んだ塗り箸を新たに奉納する慣わしになっているそうだ。
ぬりこめ地蔵と言うことで、塗り箸に歯痛を「塗りこめる・封じ込める」と意味から生まれた風習だと思われる。
お地蔵様は、高さは1メートルほどで、右手に錫杖を持ち、左手には宝玉を置いた姿で、お顔は鼻が少し欠けているが親しみの持てる穏やかな表情である。
このぬりこべ地蔵は、元は違う場所にあったようだ。
明治3年(1870年)の深草村絵図には違った場所に記されていると言う。
現在の京都府警察学校の辺りの「そとわの墓地」にあったようで、絵図には「ヌリコヘ 墓」とあり、その後に移転されたと思われる。
実は、この移転には深草の地にやってきた旧陸軍第十六師団が関係しているそうで、明治末期から一帯には軍関係の施設が立ち並ぶようになった。
そして、警察学校がある場所に兵器庫を造るため、お地蔵様は墓地と供に「立ち退き」を迫られたのだった。
その際、地蔵を現在の場所に運んだ村人の一人が、故人となられた木村藤太郎さんだそうでお地蔵様を自ら背負って運ばれたと言う。
そういう縁もあって、木村家の人たちが現在もお地蔵様の世話を続けているのだそうだ。
京都にも歯痛に御利益のあるお地蔵様や神社なども多くあり、昔からそれだけ多くの人が歯の病気に苦しめられてきた証だと思う。
毎年6月4日には、法要が行われているようだ。