2018 04/02 04:53
Category : 日記
京都市の上京区、上御霊前通りを堀川通りから西に行った社横町に「櫟谷七野神社」(いちいだにななのじんじゃ)と言う神社がある。
このあたりは今は住宅に囲まれた地域であるが、かつては紫野と呼ばれた地域であり平安京の洛外となるが内裏からも地理的に近くて、平安前期には天皇の遊猟地となっていた場所だと言う。
この紫野の地には 賀茂斎王の御所「斎院」が置かれいたそうで、神社の境内には「賀茂斎院跡」の石碑が建てられている。
それは「卜定」(ぼくじょう・占いのようなもの)によって斎王に選ばれた未婚の皇女または王女が、宮城内にある初斎院での3年間の潔斎の後に、本院であるこの紫野の斎院に移られて 斎王としての日々を過ごす場所であったそうだ。
そして、賀茂両社に仕える斎王が住んでおられた「紫野斎院」(むらさきのいつきのみや)跡にあたるのが、櫟谷七野神社を含むこの付近だったようである。
斎王は、嵯峨天皇の皇女であった有智子(うちこ)内親王を初代として、それ以後は累代の未婚の皇女や王女が卜定により選ばれ、約400年続いた後鳥羽天皇の皇女の第35代礼子内親王を持って廃絶するまで続けられたと言う。
また斎院には斎王の他にも官人や女官が500人近くも仕えていたようである。
さて、そういう場所にある櫟谷七野神社であるが、この神社が出来た経緯は、文徳天皇の皇后で染殿后とも呼ばれた「藤原明子」(ふじわらあきらけいこ)は、清和天皇の母后にあたるのであるが、その明子が懐胎を祈願していた奈良の春日大明神であった。
嘉祥3年(850年)に、念願が叶って後に「清和天皇」となる皇子が誕生になり、清和天皇の勅願で 860年代に左京の内野檪谷に春日大神を奉祀したのがこの櫟谷七野神社の始まりだと言われている。
その経緯からか地元の人達の間では「櫟谷七野神社」よりも「春日神社」の名で親しまれているのだと言う。
また、そういう関係から、毎年行われる葵祭では、祭りに先立ち、斎王代はこの櫟谷七野神社にも参拝するようだ。
そういった櫟谷七野神社であるが、その本殿の前には一枚の紙が張られていて「本殿の前に砂や塩などを積むと本殿が傷むので禁止する」と言う意味の事が書かれている。
実は、この七野神社には密かに伝えられている行為があるのだ。
それは、本殿の前に白砂を手で積むと、「浮気封じ」の御利益が得られ、失われた愛の復活の願いがかなうと言われているのである。
その伝説の起こりは、「宇多天皇」の皇后で後に七条后とも呼ばれた「藤原温子」(ふじわらおんし)が、帝のご寵愛が薄れたことに悩んで櫟谷七野神社に参拝して祈られた。
すると、「社殿の前の白い砂を三笠山の形に積んで祈りなさい」という夢告を受けたと言う。
そこで、御神託の通りに本殿の前に砂で奈良の三笠山を築いて祈ったところ、天皇の愛が戻ったという故事が櫟谷七野神社には残っるのだそうだ。
この謂れから、社前に白砂を積むと「浮気封じ」の願いが届き、失われた愛の復活が叶うと言われているようだ。
私が訪れた時には砂山は築かれてなかったが、張り紙がしてあるほどだから現在でもそういう風習が続いていると言うことだろう。
愛する人の浮気を封じたり、愛を留めたいと言うのは時代に変わらず深刻な思いなのだと思う。
この白砂の山は人に見られずに積むのが御利益があるとも言われているが、人知れず白砂を社殿に積む姿は鬼気せまるものがあるのかも知れない。
それだけ、この願いが真剣で一途なものであるのだろう。
このあたりは今は住宅に囲まれた地域であるが、かつては紫野と呼ばれた地域であり平安京の洛外となるが内裏からも地理的に近くて、平安前期には天皇の遊猟地となっていた場所だと言う。
この紫野の地には 賀茂斎王の御所「斎院」が置かれいたそうで、神社の境内には「賀茂斎院跡」の石碑が建てられている。
それは「卜定」(ぼくじょう・占いのようなもの)によって斎王に選ばれた未婚の皇女または王女が、宮城内にある初斎院での3年間の潔斎の後に、本院であるこの紫野の斎院に移られて 斎王としての日々を過ごす場所であったそうだ。
そして、賀茂両社に仕える斎王が住んでおられた「紫野斎院」(むらさきのいつきのみや)跡にあたるのが、櫟谷七野神社を含むこの付近だったようである。
斎王は、嵯峨天皇の皇女であった有智子(うちこ)内親王を初代として、それ以後は累代の未婚の皇女や王女が卜定により選ばれ、約400年続いた後鳥羽天皇の皇女の第35代礼子内親王を持って廃絶するまで続けられたと言う。
また斎院には斎王の他にも官人や女官が500人近くも仕えていたようである。
さて、そういう場所にある櫟谷七野神社であるが、この神社が出来た経緯は、文徳天皇の皇后で染殿后とも呼ばれた「藤原明子」(ふじわらあきらけいこ)は、清和天皇の母后にあたるのであるが、その明子が懐胎を祈願していた奈良の春日大明神であった。
嘉祥3年(850年)に、念願が叶って後に「清和天皇」となる皇子が誕生になり、清和天皇の勅願で 860年代に左京の内野檪谷に春日大神を奉祀したのがこの櫟谷七野神社の始まりだと言われている。
その経緯からか地元の人達の間では「櫟谷七野神社」よりも「春日神社」の名で親しまれているのだと言う。
また、そういう関係から、毎年行われる葵祭では、祭りに先立ち、斎王代はこの櫟谷七野神社にも参拝するようだ。
そういった櫟谷七野神社であるが、その本殿の前には一枚の紙が張られていて「本殿の前に砂や塩などを積むと本殿が傷むので禁止する」と言う意味の事が書かれている。
実は、この七野神社には密かに伝えられている行為があるのだ。
それは、本殿の前に白砂を手で積むと、「浮気封じ」の御利益が得られ、失われた愛の復活の願いがかなうと言われているのである。
その伝説の起こりは、「宇多天皇」の皇后で後に七条后とも呼ばれた「藤原温子」(ふじわらおんし)が、帝のご寵愛が薄れたことに悩んで櫟谷七野神社に参拝して祈られた。
すると、「社殿の前の白い砂を三笠山の形に積んで祈りなさい」という夢告を受けたと言う。
そこで、御神託の通りに本殿の前に砂で奈良の三笠山を築いて祈ったところ、天皇の愛が戻ったという故事が櫟谷七野神社には残っるのだそうだ。
この謂れから、社前に白砂を積むと「浮気封じ」の願いが届き、失われた愛の復活が叶うと言われているようだ。
私が訪れた時には砂山は築かれてなかったが、張り紙がしてあるほどだから現在でもそういう風習が続いていると言うことだろう。
愛する人の浮気を封じたり、愛を留めたいと言うのは時代に変わらず深刻な思いなのだと思う。
この白砂の山は人に見られずに積むのが御利益があるとも言われているが、人知れず白砂を社殿に積む姿は鬼気せまるものがあるのかも知れない。
それだけ、この願いが真剣で一途なものであるのだろう。