毛朱一竹塚
京都でも指折りの観光地である東山の清水寺から八坂神社へと続く坂道は、「三年坂」あるいは「産寧坂」と呼ばれる名所である。

三年坂については、この坂で転倒すると三年以内で死ぬと言う言い伝えが有名であるが、これは子安の塔や泰産寺へ参拝する産婦さんらに、転ばないように気をつけるようにとの警告から生まれた言い伝えだと言われている。

この三年坂は、多くの観光客で賑わっているが、この付近は平安時代には「鳥辺野」と呼ばれる葬送地でもあったのである。

そして、三年坂と呼ばれるこの坂の付近には、「毛朱一竹塚」(もみいつちくづか)と呼ばれる塚があったと言われている。

毛朱一竹塚の伝説は平安時代の末期、あの「平清盛」に関係した不思議な伝説である。

ある日の事、平清盛は清水寺に参篭して眠りに付くと不思議な夢を見た。

後日に、その夢を占ってもらうと、それは吉夢だという。

これは縁起の良い事だと思いながらもしばらくの日が過ぎた。

清盛が内裏の宿直に着いていた夜の事である。

最近、夜になると内裏に怪しげな鳴き声が響き、帝を悩ましていたのであった。

その夜も何となく不気味な夜であったが、深夜になってやはり闇の中に怪鳥とおぼしき鳴き声が響いた。

どうやら「鵺」(ぬえ)に良く似た鳴き声に思われる。

ちなみに鵺は頭が猿、身体は狸、手足は虎、尾は蛇と言う化け物であるが、源頼政が御所に現れる鵺を退治した伝説が有名である。

また実際には鵺はトラツグミの事だとも言われている。

清盛も武士である、意を決すると鳴き声を頼りに弓を射ると見事に怪鳥を打ち落とした。

獲物を良く見てみると、見たことも無いような不思議な鳥であった。

捕らえた怪鳥を博士に見せて占ってもらうと、これは「毛朱」(もみ)と言う中国の化け物で、年老いた鼠の変化したものだと言う。

この毛朱も一説によるとももんがの事ではないかと言われている。

これも吉兆だと言うので、この毛朱を大きな竹の筒に入れて、現在の三年坂の頂上付近の丘に埋めて塚とされたそうである。

これが「毛朱一竹塚」と呼ばれるようになった。

平清盛は、この功績もあって安芸守の地位に昇任したと言う。

なお、この毛朱一竹塚には、源頼政が退治したと言われる鵺も埋められているとも言われているそうである。

また、しばらくして帝が病になったときに占わせると、この毛朱の祟りだと占われた。

そこで勅使を遣わして、この毛朱一竹塚で病気平癒の祭祀を行ったそうだ。

それ以後も、帝が病気になると、この塚に勅使を遣わすことが恒例になったようである。

この塚は大正の頃までは三年坂の付近にあったと言われているが、いつの頃からか無くなってしまった。

また、毛朱一竹塚の石碑も近年まであったと聞いて探してみたのだが、見つけることは出来なかった。

今は、そういう伝説も思わせない観光地となった三年坂であるが、そういう怪異の史跡と観光地が同居しているのが、京都の魅力なのかも知れない。