2018 03/09 04:24
Category : 日記
京都市伏見区の、京阪電車「伏見桃山」駅、あるいは近鉄電車「桃山御陵前」駅から道路を東に少し行くと「御香宮神社」(ごこうのみやじんじゃ)と言う神社がある。
創建年は不詳とされるが、当初は「御諸神社」と呼ばれていた由緒ある古社であり、神功皇后を主祭神として祀り安産守護の神社として、現在でも多くの信仰を集めている。
「御香宮」と言う名前であるが、平安時代の貞観4年(862年)に、この境内から清泉が湧き出して付近にふくいくたる「香」が満ち溢れた。
また、この霊水を飲むとたちまちどんな病気も癒されると噂になり、その御利益によって「清和天皇」より「御香宮」の名を賜ってから「御香宮神社」と呼ばれるようになったと言う。
この「御香水」であるが、ながらく出なくなって途絶えていたそうであるが、昭和57年(1982年)に地下を150メートル掘り下げて本殿の前に水汲み場を復活させたのだそうだ。
環境庁の名水百選にも認定されて、多くの人が水を汲みに訪れているそうだ。
この御香宮神社は、豊臣秀吉が天正18年(1590年)に、願文と太刀(重要文化財)を献じてその成功を祈り、やがて伏見城築城に際して、城内に鬼門除けの神として勧請して社領三百石を献じた言う。
その後、徳川家康も慶長10年(1605年)に元の地に本殿を造営し社領三百石を献じたそうだ。
また、御香宮神社の表門は秀吉が築城した伏見城の大手門を、江戸初期に水戸藩祖である徳川頼房(水戸黄門でお馴染みの光圀の父)が移築寄進したもので、表門正面の蟇股に彫られた中国の孔子説話の二十四孝にちなんだシーンの彫刻が見事である。
さて、この御香宮神社には拝殿の東側にりっぱな「絵馬堂」があり、かなりの年代物で傷みの激しい絵馬など多くの絵馬が掛けられている。
神社で絵馬と言えば、神社で社務所などで用意されている絵馬を買って、願い事を書いて奉納するのが一般的であるが、あれは小さな絵馬なので本来は小絵馬と言うそうだ。
もともとは、生きた馬を神様に奉納していたのが始まりであるそうで、その後に生きた馬から木などで作った馬に変わって行き、やがて絵に描いた馬へと変わって行ったことから「絵馬」と呼ばれるようになったと言う。
そして祈願のためや、願い事が叶ったお礼として絵馬を奉納するようになったのだが、大きなものだと2メートルを超える絵馬も珍しくない。
この御香宮神社の絵馬堂にも多くの絵馬が奉納されているのであるが、この絵馬についても幾つかの伝説が残されている。
絵馬堂に掛けられた絵馬の中で、ある一角に「猿曳」(さるひき)の様子を描いた絵馬が飾られている。
その絵馬は横は約2.5メートル、縦は2メートルほどで、古いものなので色なども落ちてしまっているが、鳥居のそばで芸を披露する帽子姿の猿と猿にかけられた紐を引く猿曳の姿が描かれているのである。
ちなみに猿曳は、今でいう猿回しのことである。
この絵馬の内容については、江戸時代の名所記「京童跡追」などに書かれているようだ。
ある日、諸国を巡っていた猿使いが、御香宮神社にようやくたどり着いた。
猿使いの男は、旅の疲れと空腹もあり、息も絶え絶えであった。
すると肩に乗っていた猿が駆け出して、神前に湧き出る霊水を両手ですくうと、猿使いの元に戻り男のの口に注いで飲ませたのである。
猿使いは喉が渇いていた事もあり、美味しい霊水を夢中になって飲み続けると、香り高い霊水の味わいに元気が回復して生き返った思いだった。
「この水の香りと美味しさはきっと神水に違いない」
感激した猿曳は、猿と供に一曲を舞って神に奉納し感謝を示したのだった。
この絵馬は、江戸時代の1646年に、願主が後藤庄兵衛、作者が前田六之丞として奉納されたものだと言い、伝説と奉納と、どちらが先かは定かではないようだ。
また、この絵馬には現在は金網がかぶせられていて、これにも謂れがあると言う。
この猿曳の絵馬の奉納された後、近くで夜な夜な作物が荒らされる事件が相次いだのだった。
せっかくの農作物が荒らされたのでは死活問題である。
たまりかねた住民たちは犯人を捕まえようと夜の番をすることになった。
ある夜のこと。
ついに、夜の暗さの中に田畑を荒らす一匹の猿を発見した。
こいつが田畑を荒らしていた犯人か!
そう思って、怒りもあって住民たちは猿を追い回して手にしていた鎌で猿に切りつけたが、そこは素早い猿の事で傷を負わせたものの逃げられてしまった。
明けて翌朝になり、住民たちが今度こそ猿を捕まえられますようにと御香宮神社に参拝し、ついでに絵馬堂を訪れて猿曳の絵馬を見て驚いた。
なんと、絵馬の猿の腕が斬られていたのだった。
さては、この絵馬の猿が抜け出して田畑を荒らしていたのか。
その事から、絵馬からサルが抜け出さないように金網がかぶせられたと言う。
そういう伝説も絵馬の出来の良さから生まれた話だと思われる。
その絵馬の完成度の高さからは、伝説的な彫刻師として有名な「左甚五郎」が作ったのではないかと噂されたほどだった。
ちなみの、その猿曳の絵馬は小絵馬として美しく復元されて社務所で求める事ができる。
このように絵馬堂には、神仏の姿や、馬や武士などの姿、当時の世相などが描かれた多くの絵馬が残っている。
また絵馬堂の絵馬とかは昔の人にとっては鑑賞の場でもあり、また人々が集う社交の場でもあったのだろう。
もう一つ、御香宮神社の絵馬堂を舞台とした怖ろしい伝説も残されている。
これは浅井了意の「伽婢子」に書かれた話である。
文亀年間の事である。
都の七条に、いつも奈良まで商売に通う男がいた。
その日も奈良まで商用で出かけたが、思ったよりも手間取って用を終えて都へ戻る途中の伏見の辺りで日が暮れてしまった。
辺りは暗くなり人影も見かけなくて心細くなった男は、通りかかった御香宮神社に入ると、拝殿で横になって夜を明かそうとしたのだった。
しばらくして男がまどろみかけた頃である。
枕元で呼びかける声がするので、男が何かと目を開けると枕元に直衣に烏帽子姿の男が立っていた。
烏帽子姿の男はこう言った。
「これより高貴なお方がこちらに来られて遊ばれる。少し脇にのいてお休みくだされ」
商人の男が不思議に思いながらも、場所を開けて脇に退くと二人の女性が現れた。
一人は高価な衣装をまとった美しい女性で、侍女を伴っている。
灯りがともると上品な敷物が敷かれ、そこに美味しそうな料理や酒が並べられた。
男は隅の方で隠れるように見ていると、女性が男に気がついて話しかけてきた。
「そこにおられるのは旅人のお方でしょうか、おそらく行き暮れて難渋されているのでしょう。どうぞ、こちらにおいでになって御一緒にくだされ」
女性に誘われて、男は恐る恐る近づくと、女性は高貴な顔の絶世の美女であり、また侍女のほうも初々しい乙女である。
男は美しさに見惚れていたが、お酒を勧められてお腹が空いてたこともあって、料理をいただいてお酒も呑み始めた。
やがて侍女が胡弓を弾いて、女性は琴を奏でて歌を唱和しはじめた。
その美しい調べと歌声に男はうっとりと聞き惚れるばかりである。
歌が終わると、男はお礼にと荷物の中から白銀花形の手箱を女性に献上した。
さらに侍女にも鼈甲の琴爪を贈り、その時に酒の酔いもありそっと侍女の手を握ってしまった。
すると、侍女も嫌がらずに微笑むと軽く男の手を握り返してきたである。
その時である。
侍女と男の様子を横目で見ていた女の表情がサッと変わった。
険しい眼差しになると、杯の並んだ台座を侍女に投げつけたのである。
杯が当たったのか侍女の顔から血が滴り、着物に赤い染みが付く。
男は意外な成り行きに驚き、おろおろとして立ち上がったその時に飛び上がったその時に、美女も侍女も何もかもが消えてしまっていた。
さては夢だったのか、男はただ呆然とするばかりだった。
男は、不思議な思いに眠ることもできず、やがて夜が明けてきた。
何となく嫌な気分にそうそうに帰ることにしようと神前にお参りした後で、ふと絵馬堂が気になって覗いて見ると、一枚の絵馬に目が奪われてしまう。
その絵馬には、昨夜の夢うつつに出会った琴を弾く美女と侍女、そして烏帽子姿の男の姿も見たままに描かれていたのである。
しかも杯を投げつけられた侍女の顔のあたりは大きく破れた傷がついていたのだった。
男は絵馬を調べて見たが誰の物なのか判らなかったと言う。
実際に、話に該当するような絵馬は無かったと言われているが、絵馬は願いや思いが篭められた物だけに不思議なことがあっても納得させてしまう雰囲気がある。
あるいは、絵馬に描かれた女性ですら、嫉妬に駆られると残忍になりと言う怖さと、だからこそ男性にはいい加減な行為への戒めで語られた話かも知れない。
もう一つ、絵馬堂には「算額」(さんがく)と言う特殊な絵馬が掛けられている事もある。
これは、数学の問題や回答を絵馬として奉納してあるもので、江戸時代中ごろから全国各地の寺社に算額を奉納するのが流行りだしたと言う。
当時の数学は現在の西洋数学ではなく、中国を起源とする「和算」と呼ばれる独自の数学だったようである。
その数学の問題の提出や解けた喜びを発表したものが算額とされ、当時は寺社の絵馬堂が公共の場所だった証なのかも知れない。
現在、日本各地に約820ほどの算額が残されているそうで、完全な形で現存するものは京都の北野天満宮の絵馬所にあるものだそうだ。
この御香宮神社の絵馬堂にも算額が掛けられているが、これは遺題と呼ばれる問題だけのもので、もとは天和三年(1683年)に山本宗信と言う人が奉納された物を昭和50年(1975年)に復元したものだそうだ。
なを、この算額の回答した絵馬が八坂神社に奉納されてるそうであるが、現在では絵馬堂が立ち入り禁止になっていて見れなくなっているのが残念である。
ちなみに、この御香宮神社と八坂神社の算額の絵馬が、山村美紗さんの「京都絵馬堂殺人事件」と言う小説のネタになっているそうだ。
これまでの話でも判るように、昔の絵馬堂は地元の人々の広告塔的な意味と、交流の場でもあったのかも知れない。
創建年は不詳とされるが、当初は「御諸神社」と呼ばれていた由緒ある古社であり、神功皇后を主祭神として祀り安産守護の神社として、現在でも多くの信仰を集めている。
「御香宮」と言う名前であるが、平安時代の貞観4年(862年)に、この境内から清泉が湧き出して付近にふくいくたる「香」が満ち溢れた。
また、この霊水を飲むとたちまちどんな病気も癒されると噂になり、その御利益によって「清和天皇」より「御香宮」の名を賜ってから「御香宮神社」と呼ばれるようになったと言う。
この「御香水」であるが、ながらく出なくなって途絶えていたそうであるが、昭和57年(1982年)に地下を150メートル掘り下げて本殿の前に水汲み場を復活させたのだそうだ。
環境庁の名水百選にも認定されて、多くの人が水を汲みに訪れているそうだ。
この御香宮神社は、豊臣秀吉が天正18年(1590年)に、願文と太刀(重要文化財)を献じてその成功を祈り、やがて伏見城築城に際して、城内に鬼門除けの神として勧請して社領三百石を献じた言う。
その後、徳川家康も慶長10年(1605年)に元の地に本殿を造営し社領三百石を献じたそうだ。
また、御香宮神社の表門は秀吉が築城した伏見城の大手門を、江戸初期に水戸藩祖である徳川頼房(水戸黄門でお馴染みの光圀の父)が移築寄進したもので、表門正面の蟇股に彫られた中国の孔子説話の二十四孝にちなんだシーンの彫刻が見事である。
さて、この御香宮神社には拝殿の東側にりっぱな「絵馬堂」があり、かなりの年代物で傷みの激しい絵馬など多くの絵馬が掛けられている。
神社で絵馬と言えば、神社で社務所などで用意されている絵馬を買って、願い事を書いて奉納するのが一般的であるが、あれは小さな絵馬なので本来は小絵馬と言うそうだ。
もともとは、生きた馬を神様に奉納していたのが始まりであるそうで、その後に生きた馬から木などで作った馬に変わって行き、やがて絵に描いた馬へと変わって行ったことから「絵馬」と呼ばれるようになったと言う。
そして祈願のためや、願い事が叶ったお礼として絵馬を奉納するようになったのだが、大きなものだと2メートルを超える絵馬も珍しくない。
この御香宮神社の絵馬堂にも多くの絵馬が奉納されているのであるが、この絵馬についても幾つかの伝説が残されている。
絵馬堂に掛けられた絵馬の中で、ある一角に「猿曳」(さるひき)の様子を描いた絵馬が飾られている。
その絵馬は横は約2.5メートル、縦は2メートルほどで、古いものなので色なども落ちてしまっているが、鳥居のそばで芸を披露する帽子姿の猿と猿にかけられた紐を引く猿曳の姿が描かれているのである。
ちなみに猿曳は、今でいう猿回しのことである。
この絵馬の内容については、江戸時代の名所記「京童跡追」などに書かれているようだ。
ある日、諸国を巡っていた猿使いが、御香宮神社にようやくたどり着いた。
猿使いの男は、旅の疲れと空腹もあり、息も絶え絶えであった。
すると肩に乗っていた猿が駆け出して、神前に湧き出る霊水を両手ですくうと、猿使いの元に戻り男のの口に注いで飲ませたのである。
猿使いは喉が渇いていた事もあり、美味しい霊水を夢中になって飲み続けると、香り高い霊水の味わいに元気が回復して生き返った思いだった。
「この水の香りと美味しさはきっと神水に違いない」
感激した猿曳は、猿と供に一曲を舞って神に奉納し感謝を示したのだった。
この絵馬は、江戸時代の1646年に、願主が後藤庄兵衛、作者が前田六之丞として奉納されたものだと言い、伝説と奉納と、どちらが先かは定かではないようだ。
また、この絵馬には現在は金網がかぶせられていて、これにも謂れがあると言う。
この猿曳の絵馬の奉納された後、近くで夜な夜な作物が荒らされる事件が相次いだのだった。
せっかくの農作物が荒らされたのでは死活問題である。
たまりかねた住民たちは犯人を捕まえようと夜の番をすることになった。
ある夜のこと。
ついに、夜の暗さの中に田畑を荒らす一匹の猿を発見した。
こいつが田畑を荒らしていた犯人か!
そう思って、怒りもあって住民たちは猿を追い回して手にしていた鎌で猿に切りつけたが、そこは素早い猿の事で傷を負わせたものの逃げられてしまった。
明けて翌朝になり、住民たちが今度こそ猿を捕まえられますようにと御香宮神社に参拝し、ついでに絵馬堂を訪れて猿曳の絵馬を見て驚いた。
なんと、絵馬の猿の腕が斬られていたのだった。
さては、この絵馬の猿が抜け出して田畑を荒らしていたのか。
その事から、絵馬からサルが抜け出さないように金網がかぶせられたと言う。
そういう伝説も絵馬の出来の良さから生まれた話だと思われる。
その絵馬の完成度の高さからは、伝説的な彫刻師として有名な「左甚五郎」が作ったのではないかと噂されたほどだった。
ちなみの、その猿曳の絵馬は小絵馬として美しく復元されて社務所で求める事ができる。
このように絵馬堂には、神仏の姿や、馬や武士などの姿、当時の世相などが描かれた多くの絵馬が残っている。
また絵馬堂の絵馬とかは昔の人にとっては鑑賞の場でもあり、また人々が集う社交の場でもあったのだろう。
もう一つ、御香宮神社の絵馬堂を舞台とした怖ろしい伝説も残されている。
これは浅井了意の「伽婢子」に書かれた話である。
文亀年間の事である。
都の七条に、いつも奈良まで商売に通う男がいた。
その日も奈良まで商用で出かけたが、思ったよりも手間取って用を終えて都へ戻る途中の伏見の辺りで日が暮れてしまった。
辺りは暗くなり人影も見かけなくて心細くなった男は、通りかかった御香宮神社に入ると、拝殿で横になって夜を明かそうとしたのだった。
しばらくして男がまどろみかけた頃である。
枕元で呼びかける声がするので、男が何かと目を開けると枕元に直衣に烏帽子姿の男が立っていた。
烏帽子姿の男はこう言った。
「これより高貴なお方がこちらに来られて遊ばれる。少し脇にのいてお休みくだされ」
商人の男が不思議に思いながらも、場所を開けて脇に退くと二人の女性が現れた。
一人は高価な衣装をまとった美しい女性で、侍女を伴っている。
灯りがともると上品な敷物が敷かれ、そこに美味しそうな料理や酒が並べられた。
男は隅の方で隠れるように見ていると、女性が男に気がついて話しかけてきた。
「そこにおられるのは旅人のお方でしょうか、おそらく行き暮れて難渋されているのでしょう。どうぞ、こちらにおいでになって御一緒にくだされ」
女性に誘われて、男は恐る恐る近づくと、女性は高貴な顔の絶世の美女であり、また侍女のほうも初々しい乙女である。
男は美しさに見惚れていたが、お酒を勧められてお腹が空いてたこともあって、料理をいただいてお酒も呑み始めた。
やがて侍女が胡弓を弾いて、女性は琴を奏でて歌を唱和しはじめた。
その美しい調べと歌声に男はうっとりと聞き惚れるばかりである。
歌が終わると、男はお礼にと荷物の中から白銀花形の手箱を女性に献上した。
さらに侍女にも鼈甲の琴爪を贈り、その時に酒の酔いもありそっと侍女の手を握ってしまった。
すると、侍女も嫌がらずに微笑むと軽く男の手を握り返してきたである。
その時である。
侍女と男の様子を横目で見ていた女の表情がサッと変わった。
険しい眼差しになると、杯の並んだ台座を侍女に投げつけたのである。
杯が当たったのか侍女の顔から血が滴り、着物に赤い染みが付く。
男は意外な成り行きに驚き、おろおろとして立ち上がったその時に飛び上がったその時に、美女も侍女も何もかもが消えてしまっていた。
さては夢だったのか、男はただ呆然とするばかりだった。
男は、不思議な思いに眠ることもできず、やがて夜が明けてきた。
何となく嫌な気分にそうそうに帰ることにしようと神前にお参りした後で、ふと絵馬堂が気になって覗いて見ると、一枚の絵馬に目が奪われてしまう。
その絵馬には、昨夜の夢うつつに出会った琴を弾く美女と侍女、そして烏帽子姿の男の姿も見たままに描かれていたのである。
しかも杯を投げつけられた侍女の顔のあたりは大きく破れた傷がついていたのだった。
男は絵馬を調べて見たが誰の物なのか判らなかったと言う。
実際に、話に該当するような絵馬は無かったと言われているが、絵馬は願いや思いが篭められた物だけに不思議なことがあっても納得させてしまう雰囲気がある。
あるいは、絵馬に描かれた女性ですら、嫉妬に駆られると残忍になりと言う怖さと、だからこそ男性にはいい加減な行為への戒めで語られた話かも知れない。
もう一つ、絵馬堂には「算額」(さんがく)と言う特殊な絵馬が掛けられている事もある。
これは、数学の問題や回答を絵馬として奉納してあるもので、江戸時代中ごろから全国各地の寺社に算額を奉納するのが流行りだしたと言う。
当時の数学は現在の西洋数学ではなく、中国を起源とする「和算」と呼ばれる独自の数学だったようである。
その数学の問題の提出や解けた喜びを発表したものが算額とされ、当時は寺社の絵馬堂が公共の場所だった証なのかも知れない。
現在、日本各地に約820ほどの算額が残されているそうで、完全な形で現存するものは京都の北野天満宮の絵馬所にあるものだそうだ。
この御香宮神社の絵馬堂にも算額が掛けられているが、これは遺題と呼ばれる問題だけのもので、もとは天和三年(1683年)に山本宗信と言う人が奉納された物を昭和50年(1975年)に復元したものだそうだ。
なを、この算額の回答した絵馬が八坂神社に奉納されてるそうであるが、現在では絵馬堂が立ち入り禁止になっていて見れなくなっているのが残念である。
ちなみに、この御香宮神社と八坂神社の算額の絵馬が、山村美紗さんの「京都絵馬堂殺人事件」と言う小説のネタになっているそうだ。
これまでの話でも判るように、昔の絵馬堂は地元の人々の広告塔的な意味と、交流の場でもあったのかも知れない。