安楽寺天満宮(改定しました)
京都の「北野天満宮」と言えば「菅原道真」を祀る天満宮として有名ですが、そこから南方へ円町方面へ行った所に「安楽寺天満宮」と言う天満宮があります。

この安楽寺天満宮が京都での最初の天満宮だと言われています。

安楽寺天満宮と言えば大宰府天満宮の旧名として知られていて、この京都の安楽寺天満宮と伝説が重なる部分もありますので、今回はややこしくなりますので大宰府天満宮の方は置いておいて京都の方の話をさせていただきます。

菅原道真と言えば藤原時平の讒言により大宰府へ左遷されてしまうのですが、その際に道真に同道して大宰府へ赴いきお世話をした人々もいました。

そして道真が大宰府で亡くなると道真の遺体は大宰府で葬られて、その地に建てられたのが大宰府の安楽寺天満宮で後に大宰府天満宮となったそうです。

さて、道真のお世話をしていた人達は、道真の遺言により道真が手彫りしたと言う木像を持って京都の地へ戻ってくるのですが、京都の北野付近へ来た時に木像を御神体としてその地に祀ったのが安楽寺天満宮の始まりだと言われています。

その後、北野の森に「北野天満宮」(北野社)が創建されると北野天満宮に吸収されるような形にになりました。

そして、北野天満宮神域の西京一条から二条の間に位置する7箇所に北野天満宮に神供を調達するための御供所が存在し、それぞれ天満宮を祀って大宰府から帰って来た人達を中心に北野天満宮神人と呼ばれるようになりました。

これらの人々は普段は農商業に従事しながら御供所に祀られた天満宮を守り、年に6回の祭事の際に北野天満宮に神供を調理して提供していたそうです。

その7か所の北野天満宮御供所は一之保から七之保まで番号が振られ、七保と総称されていました。

北野天満宮七保は、それぞれ神仏習合により境内に神宮寺を有しており、それぞれに「一保安楽寺」「二保東光寺」「三保長宝寺」「四保新長谷寺」「五保満願寺」「六保阿弥陀寺」「七保成願寺」などがあったと言います。

現在の安楽寺天満宮は、かつて北野天満宮一之保御供所があった場所だそうです。

そして一之保御供所の神宮寺・安楽寺は、安楽寺天満宮と呼ばれていました。

しかし、合戦などに巻き込まれて立ち退かなければならなくなった時に、御神体を土に埋めて隠し、目印に石を置いたのが現在境内にある「不動石」だそうです。

そして明治になり、廃仏毀釈により北野天満宮七保が廃止され、一之保御供所は御神体と供に、北野天満宮境内に遷され、一之保神社として北野天満宮の末社となりました。

ちなみに、現在の安楽寺天満宮の敷地に一之保天満宮の社も祀られています。

その後、戦後になり北野神人の子孫の方々がもともとの地に勧進して祀ろうと言う事になり、現在の場所に安楽寺天満宮として祀られる事になったのだそうです。

そういう経緯があるからか、安楽寺天満宮に祀られている菅原道真は学問の神様ではなく、原初の雷神であり御霊である天満大神(あまみつおおかみ)であります。

また、他の多くの天満宮に見られるような牛の像は、この安楽寺天満宮には見られませんでした。

他に境内には島津製作所所縁のお稲荷様なども祀られていたりしています。

このように独特の歴史と伝説を持つ安楽寺天満宮は、現在も神人の子孫の方々によって護られているようです。

なお、近くには文子天満宮のお旅所もありましたよ。

以上、私が調べた範囲で書き込みましたが、不明な点や判り難い部分もあり、もしも間違っている部分がありましたら、申し訳ございません。