天涯の武士・小栗忠順
最近はテレビドラマなどから幕末ブームのようで、いろいろと幕末関係の書籍などが出版されているが、幕末に偉業を残したにも関わらず、ほとんど取り上げられない人物がいる。

末期の幕府を支えた幕臣の一人、「小栗上野介忠順」である。

私はもともと新撰組が好きな事もあって、どちらかと言うと幕府側贔屓の部分があるが、新撰組に次いで好きな人物が、この小栗上野介なのである。

小栗上野介忠順は、三河以来の譜代である小栗家第11代の小栗忠高の長男として、文政10年6月23日に江戸神田駿河台(現在の千代田区神田駿河台2-9)で生れたそうだ。

小栗家は上総(現在の千葉県)、下総(現在の千葉県)、上野(現在の群馬県)、下野(現在の栃木県)などに領地を持つ禄高2500石の大身の旗本であったと言う。

忠順は、8歳の時から安積艮斉に漢学を、島田見山に剣を、久保田助太郎に柔術を、田付主計に砲術をそれぞれ学び、馬術、弓術にも優れ、文武両道に秀でた才人であった。

物事に動じず、権力にへつらわない性格と自身の意見を誰憚ることなく主張する直言癖は、幼少の頃からのようで、付いた渾名が「天狗」であったそうだ。

天保14年、17歳になった忠順は初御目見得し、その後学問と武術の心得がめでたいとのことで両御番になる。

嘉永6年、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーが、遣日国使・日本遠征艦隊総指揮官として4隻の軍艦を率いて浦賀に来航したのであった。

その後、次々と出没する異国船に対処するための浜御殿(現在の浜離宮恩賜庭園)詰警備役になったが、その頃の忠順は「三本マストの木造船を建造して大いに貿易をすべきである」との持論を公言していた。

安政2年、29歳の時、父忠高が新潟奉行在任中に死去したため家督を相続する。


安政5年、「井伊直弼」が大老になると、幕府は懸案だった条約を一気に調印し、アメリカを皮切りにオランダ、ロシア、イギリス、フランスと相次いで締結した。

翌年33歳の忠順は大老の井伊に抜擢され本丸目付(監察)となり、外国掛に任ぜられた。

9月13日、井伊は忠順に日米修好通商条約批准書交換の使節を内命し、またその年の11月には豊後守に任ぜられる。

安政7年、遺米使節団はアメリカ海軍軍艦ポーハタン号(2415トン)で77名の日本人と312名のアメリカ人乗組員とともに築地を出港して行った。

使節団の正使は「新見豊前守正興」(外国奉行兼神奈川奉行、40歳)、副使として「村垣淡路守範正」(同兼箱館奉行兼勘定奉行、48歳)などで、小栗忠順は34歳で遣米使節目付(監察)として同行したのである。

その使節団が乗ったポーハタン号の随行艦が、あの「咸臨丸」(625トン)で、ポーハタン号より一足早く1月13日、品川を出て、横浜を経由し1月19日八ツ半、西からの強風のなか浦賀湊を出航したのであった。

咸臨丸の司令官は「木村摂津守喜毅」(軍艦奉行、芥舟)で、艦長はあの「勝海舟」であり、教授方に運用方の佐々倉桐太郎(浦賀奉行所与力)、浜口興右衛門(浦賀奉行所与力)、測量方が小野友五郎、蒸気方は肥田浜五郎、山本金次郎(浦賀奉行所同心)、通弁主務が「中浜万次郎」(ジョン万次郎)、教授方手伝として岡田井蔵(浦賀奉行所与力)、赤松大三郎などの士官、奉行従者に「福沢諭吉」などがおり、また、医師、鼓手、水夫、火焚、大工、鍛冶など総員96名のほかアメリカ海軍大尉ジョン・M・ブルック以下11名のアメリカ人が乗っていたと言う。

もっとも、船に弱い「勝海舟」は船室を出ることはなく、実際に操船していたのはブルック、小野友五郎、佐々倉桐太郎、浜口興右衛門などであったようだ。

ポーハタン号一行はハワイを経て、安政7年3月8日にサンフランシスコに到着し、先に着いていた咸臨丸乗員とともに熱烈な歓迎を受けることになる。

日本人もアメリカ人も好奇心のかたまりで、お互いにすべてのものを珍しがったそうである。

多くの歓迎行事の合い間を縫って、小栗忠順が最初に訪ねたのは、アメリカ合衆国造幣局サンフランシスコ分廠であったそうで、2ヶ月後にワシントンで始まる日米通貨・為替交渉の下調べのためであった。

そして再度ポーハタン号に乗船しパナマに向かった。

そこから、蒸気機関車で大西洋を目指し、機関車の先端に日章旗と星条旗を翻らせ、客車には日の丸の幕をはためかせてパナマ地峡を横断したのである。

大西洋岸では迎艦ロアノーク号に乗り換え、万延元年閏3月24日、首都ワシントンにようやく到着したのだった。

一方、咸臨丸は使節団がワシントンに無事到着する予定であることを、開設されて間もない大陸横断騎馬郵便(このポニー・エクスプレスの記念すべき第一便は、4月3日サンフランシスコ発で日本使節団到着の知らせも含まれていた)で知り、同年閏3月18日に帰路につき、その帰路では、小野友五郎が中心となって佐々倉桐太郎、肥田浜五郎、浜口興右衛門などが艦を操る日本人だけの航海であったと言い、端午の節句の5月5日に浦賀湊に帰り着いたと言う。


使節団は、万延元年閏3月27日に、ホワイト・ハウスのイースト・ルームで第15代アメリカ合衆国大統領ジェームス・ブキャナンに謁見することになる。

正使の新見、副使の村垣、目付である忠順は、烏帽子、狩衣に鞘巻の太刀と見事な盛装で、威厳のある物腰とあいまって居合わせた人々を感嘆させた。

ニューヨーク・ヘラルド紙は、「日本紳士のトータル・アンサンブルは、趣味と芸術の結晶で、最高の完璧さであった」と述べている。

そして万延元年4月2日、アメリカ国務省内で日米修好通商条約の批准書を交換し、日本文に新見、村垣と忠順が花押を記し、英文はカス国務長官がサインしたのである。

条約には、国名は大日本帝国、日付は安政7年4月3日と記されていたが、実際には万延元年であったと言う。

その年の3月3日に、桜田門外の変で大老の「井伊直弼」は、桜田門外で水戸・薩摩浪士によって暗殺され、3月18日に元号は万延に変わっていたのであるがアメリカにいる彼等には知る由も無かったのだ。

小栗忠順は儀礼的行事を新見たちに任せ、通貨・為替交渉の準備に取り組むになる。

フィラデルフィアで1両小判と1ドル金貨の交換比率を決めることになり、まず、互いの金の含有量を計ることとなり、合同実験を開始したのだった。

忠順は、持参した竿秤で正確に測定し、随行の侍が算盤で恐ろしい速さで計算したと言う。

アメリカの優秀な技師たちが苦労して計算しているのを、煙管をくわえ忠順たちは微笑みを浮べながら待っていたそうだ。

ザ・フィラデルフィア・インクワイヤラー紙は、

「オグロ・ブンゴ・ノカミ(小栗豊後守忠順)は、会談が始まると秤を取り出した。それを見て我々は、ショックを受けた。我が国では鉄で出来ている部分が、日本では象牙で作っている。約1フィートの長さにわたって精緻な目盛りが刻まれ、皿と錘が付いている。実験してみると一分の狂いもない精密さを保っていた」

「日本人の重量測定システムは十進法であることが分かった。日本人の方がアメリカ人よりもはるかに合理的、進歩的なのかもしれない」

「日本の役人の一人は、アバカス(算盤)を持っていた。5ずつの木製のボタンが15列並んでいる。そのボタンをあちこち滑らせると、恐るべきスピードで計算できてしまうのである」

と、1860年6月15日付けで報じている。

忠順は造幣局の一室にこもり、アメリカ人スタッフとともに熱心に合同実験を続け、やがて安政小判1両と3ドル41セントという新通貨交換・為替レートを決定するのである。

こうして遣米使節団の最大の目的はここに成されたのだった。

アメリカ人スタッフは、忠順の知性と情熱に驚愕し、交渉が無事終了した時には、双方に尊敬の念が残った。

当時、金と銀の交換比率が日本(1対5)と海外(1対15)の間では大幅に異なっていたため、諸外国は、銀を持ち込み大量の金を持ち去っていった。

それで50万両を越える金貨が海外に流出し日本経済は破滅状態に陥っていたのである。

一方、幕府は忠順がアメリカに滞在中の万延元年4月、安政小判を3分の1にした万延小判を鋳造し、金銀比価を1対15,74とし国際比価に最も近いものにしていた。


ニューヨークに着いた使節団を待っていたのは、日の丸と星条旗を持った数十万の市民であった。

ブロードウエイのビルの窓という窓には日米の国旗が飾られ、未曾有の大歓迎であったと言う。

使節団の馬車を中心にしてパレードは延々と続き、動員された兵士は6640人であったそうだ。

その民衆の中に詩人ウォルト・ホイットマンもいて、その強烈な印象を「草の葉」に収められている「ブロードウエーの華麗な行列」で歌い上げ後世に残している。

当初、日本からの使節団を奇異の目で見ていたマスコミ各社も、やがて愛情と尊敬の念を持って彼らの行動を報道しはじめたようだ。

ニューヨーク・タイムズ紙は、

「日本人は、善良で、温和で、そして世界でも最高の知性を有している」

と、報じ、ニューヨーク・ヘラルド紙は、忠順について、

「監察オグロ・ブンゴ・カミは、小柄だが、生き生きとした、表情豊かな紳士である。威厳と、知性と、信念と、そして情愛の深さとが、不思議にまざりあっているのである」

「オグロは、明らかにシャープな男である。ワシントンで『日本使節のブラック判事』(当時アメリカで最も人気があり、尊敬されていた人物)とニック・ネームがついたのももっともなことである」

「オグロは、使節団の中心である。なにごとも、彼の同意がなければ決定できない。彼のからだのすみずみに、秋霜の厳しさがみなぎっている」

と、書いている。


やがて使節団は、ナイヤラガラ号に乗り組み大西洋を越え、アフリカのロアンダ、ジャワ島バタビア、香港を回って万延元年9月29日にようやく品川に帰着した。

こうして小栗忠順は、近代化したダイナミックなアメリカと植民地化されたアフリカ、アジアを目の当たりにし、迫り来る列強の脅威のなか、帰国後、日本の近代化に全精力を注ぐことになる。

しかし、帰国後に外国奉行を命じられた忠順は、難題を次から次と抱えることになる。

アメリカ公使通訳ヒュースケンの殺害事件などの後始末に加え、さらなる大事件が忠順を待っていた。

文久元年、ロシア軍艦ポサードニクが対馬国芋崎を不法に占拠したのである。

対馬に急ぎ交渉に入ったが、艦長ビリレフは執拗に租借権を要求し退去しない。

難航の末交渉は決裂し、忠順は失意のなかやむなく江戸に戻った。

そこで、登場するのが「勝海舟」である。

勝は、イギリス公使オールコックに頼み込み2隻のイギリス軍艦を対馬に派遣してもらい、ロシアを追い出すことに見事に成功する。

小栗忠順は列強の脅威に触れ、幕府に「対外交渉は領事館を通して行う、この対馬を幕府の直轄地にすること」を上申し辞表を出すのであった。

その後の忠順と勝は、忠順が沈めば勝が浮びあがり、勝が沈めば忠順が浮びあがるという不思議な運命に2人は操られる事になる。

小栗忠順は、現状での領土保全の難しさを痛感し、この対馬の件が「横須賀製鉄所」の建設の切っ掛けとなって行く。

文久2年、初めての勘定奉行勝手方に任ぜられ、続いて上野介を任ぜられた。

その後、江戸町奉行、歩兵奉行、再度の勘定奉行、陸軍奉行と任免を繰り返すことになる。

小栗忠順は気骨のある人物で自分の意思を貫くためには地位に固執せず、時には責任をとって役を辞任する事もあったが、その有能さゆえに再任されたりしたのである。

国家の危機を肌で感じた忠順は、強い海軍を創設するためには自力で軍艦を建造することが必要と考え、近代的造船所の建設を急ぐことにする。

しかし、どこから技術の導入を図るかがなかなか決まらない。

というのは、最も頼りたいと考えていたアメリカが1861年4月から始まった南北戦争でそのような余裕などまったくなかったからである。

また、幕府は造船主義か買船主義かで揺れ動いていた。

勝海舟たちは軍艦を列強から購入することで近代的な海軍を創設すべきと考え、忠順の造船主義では長い年月が掛かり過ぎると激しく批判した。

実際、幕府が瓦解するまでに44隻の艦船を諸外国から購入し、その総額は実に333万6千ドル(現在の340億円以上)に達した。

勝や財政的に不可能と考えている多くの幕閣の非難のなか、忠順はそれに臆することなく、信念を持ち「造船所」の建設を強力に推進する。

このような動きを察知した駐日フランス公使「レオン・ロッシュ」は、三度目の勘定奉行になっていた忠順に具体案を提出した。

この件にフランスが積極的であったのには、ヨーロッパ全土に蔓延した蚕病によりリヨンとセヴェンヌ地方の養蚕業の壊滅状態という背景があったと言う。

フランスの最大の輸出品である絹織物の危機的状況を打破するため、供給源として品質に優れた日本の絹がどうしても必要であったのである。

そのため、同地方(グルノーブル)出身のロッシュが「ナポレオン三世」の政府の意向により日本に送り込まれてきた。

忠順も列強の中でフランスが一番好意的で誠意があることを評価し、元治元年11月、ロッシュに造船所建設を委ねる。

11月26日、小栗忠順、栗本鋤雲、ロッシュたちは、長浦、横須賀を実地検分した。

その後、幕府独自で海と陸から測量し直し横須賀を適地と判断した。

「造船所」の建設費は、4ヶ年継続で総額240万ドル(現在の240億円以上)であったが、絹の利権を担保にフランスからの借款で充当することにした。

それは忠順たち幕府が見積もっていた経費の半額であったそうだ。

ロッシュからの推薦を受け横須賀製鉄所首長に任命されたフランソワ・レオンス・ヴェルニーは、28歳の極めて有能な青年であった。

年俸は破格の1万ドル(現在の1億円以上)であったが、 それに見合う十分な働きをした。

ヴェルニーはフランスに戻り技術者の人選と機械類の購入の多くを自分の目で選び抜いた。

横須賀製鉄所の建設が具体化すると、忠順に対する妨害と批判は熾烈を極めた。

駐日イギリス公使「パークス」が批判するとそれに呼応するように薩摩、長州などからも反対の火の手が上がった。

江戸城内でも口を極め罵倒する者も多く、忠順は四面楚歌のなか勘定奉行と軍艦奉行を罷免され無役となる。

しかし、4ヶ月後、忠順以外にこの大役を請け負う者もなく4度目の勘定奉行を拝命する。

慶応元年9月27日、ついに、横須賀製鉄所(横須賀海軍工廠)の鍬入れ式が行われた。

そして忠順は横須賀製鉄所の経営に全力を注いで行った。

このアジア最大の近代工場の運営には必然的に近代的なマネージメントが要求されてきた。

組織、職務分掌、雇用規則、残業手当、社内教育、洋式簿記、自然保護、流通機構などの近代経営方法を忠順はヴェルニーとともに導入した。

そのため、忠順を「近代的マネージメントシステムの父」と呼ぶ人もいる。

ヴェルニーたちは慶応4年末までに錬鉄、製缶工場、宿舎、修船台、第1船渠(ドック)の建設、横須賀丸の建造、日本初の耐火煉瓦の製造など造船所機能の多くを手がけ、その一部を完成させていたのである。

それは、最新の造船所であり、アジア最大の近代工場であった。

当時の造船は、最先端の技術を駆使しなければ成り立たないものであったのである。

横須賀製鉄所はのちに横須賀造船所、横須賀海軍工廠などと拡大発展しながら変遷し、その間、多くの人材を輩出し、また、日本の工業を支え進歩させ、そして、現在は在日米海軍横須賀基地となっている。

その頃、忠順は親友の「栗本鋤雲」に次のようなことを述べていた。

「絶対必要なドックを造るのだと言えば、他の無駄金を削る口実となってよいことだ。横須賀製鉄所が出来てしまえば、幕府が政権を譲って新しい政府になり熨斗を付けてそっくり渡すことになったとしても、新しい政権に土蔵付きの売家として渡すことになって、この国のためになり名誉なこととして後世に残る」

また、東京日日新聞の主筆になった福地源一郎は、「幕末政治家」(明治33年)のなかで

「多額の資金を投じて、今の横須賀造船廠を設けたのは、実に小栗の英断がもとである。これは小栗の大きな勳労(手柄)と云わざる得ない」

と、語っている。

その後、横須賀製鉄所の鍬入れ式から91年目の昭和31年、日本はイギリスを抜き世界一の造船国になった。

もしも小栗忠順が勝海舟や他の幕閣の言うとおり買船主義で船を買い続けたなら、またイギリスや薩摩、長州の強硬な反対に恐れをなし、しり込みして横須賀製鉄所の建設を断念していたら、日本は今日のような工業・技術大国になってはいなかったかもしれない。


また、小栗忠順は横須賀製鉄所の建設の他にも日本の近代化のため、多くの事業を興し、また計画している。


○「兵庫商社」(日本最初の株式会社)の設立

○諸色会所(商工会議所の前身)の設立

○横浜フランス語伝習所(フランス語専門学校)の開設

○横須賀製鉄所黌舎(工業高等教育機関、最初の企業内教育)の開設

○軍制(歩兵・騎兵・砲兵の確立)の改革

○滝野川反射炉及び火薬製造所、小石川大砲製造所の建設

○湯島鋳造所の改造

○中央銀行設立の計画

○新聞発行の計画

○書伝箱(郵便)・電信事業の建議

○鉄道建設(江戸~横浜)の建議

○ガス灯設置の建議

○郡県制度(私案として大統領制も視野に入れていた)の建議


特に、歩兵・騎兵・砲兵の三兵編制と陸軍教育は非常に優れたもので、「桂小五郎」(木戸孝允)も

「関東の政令一新し、兵馬の制頗る見るべきものあり」

と、幕府の軍制を高く評価していた。

建議して実施できなかった事業は明治政府によってすべて実現されることになる。

このことが忠順の不幸に繋がった。

「大隈重信」は後年

「小栗上野介は謀殺される運命にあった。なぜなら、明治政府の近代化政策は、そっくり小栗のそれを模倣したものだから」

と、語ったと言われている。

旧体制を完全に否定したい新政府にとって忠順は生かしておけない人物であったのであろう。


慶応3年、将軍の「徳川慶喜」は朝廷に大政を奉還した。

しかし、幕府と薩摩・長州などの倒幕派との対立は激しさを増していた。

薩摩の「西郷隆盛」は、以前から藩士をつかい江戸城西の丸を放火し、幕臣やその家族を襲撃し、また、商家や民家を襲わせて江戸を撹乱する戦法をとっていた。

江戸は不穏な空気が漂い、町民は恐怖のどん底に陥っていたようだ。

陸軍奉行を兼任していた忠順は、同年12月25日、ついに江戸薩摩屋敷の焼き討ちを断行したのである。

これが、「鳥羽・伏見の戦い」の発端となる。

明けて慶応4年1月3日、薩長討伐のため京都に進軍する会津・桑名藩兵及び旗本とこれを迎え撃つ薩摩・長州藩兵が激突した。

しかし幕府側は、一夜にして作られた錦の御旗の前に惨敗する。

同年1月12日から3日間、江戸城では逃げ帰った慶喜の面前で主戦派と恭順派が激論を交わしていた。

小栗忠順と「榎本武揚」は主戦派の急先鋒で、東海道を進撃してきた官軍を駿河湾に待機した幕府の軍艦から砲撃し官軍を寸断するよう主張した。

しかし、主戦論は退けられた。

忠順は、青ざめて退席しようとする慶喜に徹底抗戦を執拗に迫った。

そして、同年1月15日、「酒井雅楽頭」より御役御免を申し伝えられる。

倒幕軍の参謀であった「大村益次郎」は

「幕府があの時、小栗上野介の献策を取り入れていたら、われわれの首はなかったであろう」

と、述べたと言われている。

そして、「福地源一郎」は、

「小栗は『病気が治らないといって、薬を与えないのは孝行ではない。国が滅びても、自分の身が倒れるまで公事に尽くすことが、真の武士である』と言って屈せず、身を艱難の間に置き、幕府の維持のため、進んで己の負担とした。少なくとも幕府が数年間の命脈をつなぎ得たのは、小栗の力である。自分は親しく下で働いていたので、小栗が辛苦に心力を費やしていたことを見ていた」

と、述懐している。


罷免された忠順は、「上野の権田村(現在の群馬県倉渕村)への土着願書」を幕府に提出し、住み慣れた神田駿河台の屋敷を離れた。

東善寺に落ち着いた忠順は、村々の青年を集め外国語や数学などを教えていたそうだ。

私学校の構想を持っていたようで、「今にこの谷から太政大臣を出してみせる」と、語っていたと言う。

しかし時勢は、このようなのどかな暮らしを許さなかった。

小栗の屋敷に金品目当ての暴徒が襲撃してくるが、近隣の藩や陣屋は傍観するだけであった。

忠順はわずかな家臣とともにこれを撃退する事になる。

ところが、慶応4年、東山道先鋒総督府(官軍)は小栗に反逆の意図ありとのことで「小栗上野介追討令」を高崎、安中、吉井の三藩に発したのである。

明けて閏4月1日、三藩の使者が東善寺に入り小栗忠順に疑義を糺すが、忠順の正当な釈明に納得して引き上げた。

しかし三藩の報告を受けた東山道先鋒総督府の原保太郎(22歳、後に貴族院議員)は、烈火のごとく怒り、

「小栗をかばうなら三藩も討伐の対象とする」

と、脅したのである。

小栗忠順は家臣の勧めもあり、難を避けるために一旦は家族とともに逃げる事になるが、官軍による村人への報復を恐れ東善寺に戻った。

同行を懇願する身重の妻道子をはじめ家族だけは、何とか説得をして会津を指し落とすことに成功するのである。

原保太郎、富永貫一郎(16歳)に率いられた三藩は手はずを整え再度出兵し、慶応4年閏4月5日未明、一隊が東善寺を包囲した。

小栗忠順は家臣とともに本堂に静かに座してこれを迎えたが、原は忠順主従に縄をかけるとそのまま屯所へ引き立てた。

蜷川新は「開国の先覚者小栗上野介」のなかで、

「官軍が忠順を捕縛した理由を強いて求めるならば、忠順が幕末最高の人物であり、薩長公卿の策士らの陰謀を遂行する上に恐るべき大障害であった」

からと説明している。

翌閏4月6日朝4ツ半(午前11時)、取り調べをされることなく忠順は烏川の水沼河原に引き出され、大勢の村人が見守るなか3人の家臣とともに斬首された。

忠順は、最後に

「婦女子に寛典(緩やかな処分)を望む」

と、言い残し静かに散っていった。

最後の言葉は「お静かに」の一言だったとの説もある。


忠順は、英雄ではなかったかも知れない。

しかし、当時の日本で世界の大局を見通せた数少ない人物であり、常に日本の将来を視野に入れて事業を起こす偉大な事業家であった。

また国家と国民の繁栄に心を砕いた非凡な政治家であったと思う。

そして、現在の先進工業国日本の礎を築いた偉人である。

小栗忠順の最大のライバル勝海舟には勝の生き方があり、西郷隆盛には西郷の生き方があり、坂本龍馬には龍馬の生き方があったように幕末を疾走した偉人達にはそれぞれの生き方があったのだろう。

死を恐れず、私利私欲に溺れず、権勢にへつらわず、意志を貫きながら国家の隆盛に心血を注ぎ、そして、夢破れ滅びゆく体制に殉じた忠順の生き方も、尊敬に値し、認められるべきはないだろうか。

その才能ゆへに新政府に怖れられ、無実の罪を着せられて斬首されたのである。

斬首の地記念碑は群馬県倉淵村にありその碑文にはこう書かれている。

「偉人小栗上野介罪なくして斬られる」


小栗忠順については幾つか書籍も出ているが、リイド社から出ているSPコミックスで木村直巳さんの著作の「天涯の武士・幕臣 小栗上野介」(全4巻)が判りやすくて面白いのでお勧めである。

(なお、この記述は一部をウキペディアを参考にしています)