「ネズミの穴」で空襲火炎、校正ゲラムシ焼き 「宮沢賢治 (2)「春」と「修羅」」241117 nhkETV


  「ネズミの穴」通じて空襲火炎、校正ゲラを茶紙セピア文字に 「宮沢賢治 (2)「春」と「修羅」」241117 nhkETV

 「防空壕を作ったお蔭で憲治の原稿類は辛うじて残った」
 「しかし、その防空壕にはわずか、ネズミが通路ろした穴があったために、火炎が侵入し<ムシ焼き>状態になってしまった」。
 語るのは、若くして逝った宮澤賢治の遺品、遺作類の保存に努めた弟=宮澤清六(せいろく)の孫にあたる和樹さん。

 「シリーズ宮沢賢治 久遠の宇宙に生きる (2)『春』と『修羅』のはざまで」(初回放送日:2023年5月28日)の終末近くで、語る。
 前段にあたる、<賢治の作品、世に知られ&今日まで残る>について、以下の記載が
nhk盛岡放送局の「岩手取材ノート」のなかに、あった。
 関係部分を抄出してみたい。

 「祖父を支えてくれた人たちの1人が高村光太郎先生」。
 「『春と修羅』を読んで、「もしかしたらこの作品は自分の作品よりも後に残るものになるかもしれないな」と思って周りの人に話していた」。
 「終戦間際の花巻空襲でも、賢治の原稿を守ったのは弟の清六と高村光太郎」でした。

 「東京大空襲で、当時駒込にあった自宅兼アトリエが空襲で焼けてしまうんですよ」。
 「それを聞いた賢治の父と弟の祖父は、すぐに光太郎先生に疎開しに来てくださいと呼びました」
 「花巻にやってきた光太郎先生は祖父に、防空壕はあったほうがいい、作っといた方がいいって」ことをアドバイス。

 「光太郎先生が言うのであればということで、祖父はすぐ家の裏に防空壕を作った」。
 「本当に8月10日、終戦の5日前ですね。花巻も空襲にあい、駅前からずっと延焼してきて家も焼けちゃうんです」
 「賢治さんの蔵書とか、使ってた文房具とか、そういったものは全部焼けてしまう」。

 「着てた衣類とかもね」。「でも、祖父は残された原稿類だけは防空壕と土蔵に分けて、それで焼けないですみました」。
  https://www.nhk.or.jp/morioka/lreport/article/001/79/  盛岡放送局 岩手取材ノート
 「NHK盛岡 岩手取材ノート」=「おばんですいわて 宮沢和樹さんが語る宮沢賢治~没後90年『賢治とわたし』」。

 ただ、そこでコトは終わらなかった。
 「防空壕にはわずか、ネズミが通路にした穴があったために、火炎が侵入し<ムシ焼き>状態になってしまった」。
 そう言うことなので、あった。