「地域住民が望む事例では」 公園名称変更、その舞台裏230714
 「地域住民が望む事例では」 公園名称変更、その舞台裏230714

 昨年から、遊ぶ、学ぶ、褒めるの末字をもじる「ぶぶる釧路の街歩き」。
 7月例会は「釧路空襲被災の日」たる7月14日にと決めている。記憶を風化させない、戦災復興碑前で開かれる「慰霊の集い」を「我が事」とするために。
 訪問した時日に、ちょうど報道機関の取材時と重なった。

 隣席の二人の方の談話が、翌日紙面に掲載されていた。
 参加した市内の無職男性(83)は「空襲で自宅が全焼した。釧路にも空襲があったことを忘れないでほしい」と力を込めた。
 同市の団体職員・男性(35)は「空襲の体験を語れる人が減ってきた」。自分たちが戦争を知る努力をして伝えていく必要がある」と話した、と。

 83歳男性が、取材の前後にポツリと話された点。
「親は(越後国間瀬から釧路にやってきて)栄町四丁目で漁業をやっていた」。
「親戚には大工のワザを身につけ建築業に育てた者も居るが、釧路空襲で家は丸焼けになった」。
「戦後70周年にあたる平成7年にこの慰霊モニュメントが建てられた」。

 たまたま公園整備の担当をしていて、「この一帯が被災し、公園になった地に廃材が集められたこともあり、災害記憶を伝えるにふさわしい名称にかえられないか」と、関係機関と協議した。
 「しかしこの公園は国の補助金(注 戦災復興事業)を導入しているため、名称を変えられない」。「そうした壁にぶちあたった。そこで東京あたりで名称を変更している事例はないか。一生懸命に調べてみた」。

 「調べてみると変更例があり、認められた事例では『住民が求めているという、同意があれば可能』であると知った」
 「そこから事務手順の方向を見いだすことにした」。
 昭和5年に釧路市は都市計画法による地域指定を掲げていた。この計画で「市中に避難区域を設定すること」になっていた。

 戦後、国は戦災復興事業で被災地の復興を優先的に手掛けた。本市では栄町公園、南大通佐野碑園(児童公園)、米町公園が整備対象となった。そう記憶する。
 戦後、50周年。満5歳で被災した男の子が、市職員で公園整備の担当課長となっていた。めぐりあわせかも。戦後、命名の「栄町公園」は、戦後50周年の年、「栄町平和公園」と名称変更された。

 新聞に報道された談話も貴重であったが、むしろ紙面にあらわれない後者の回想に注目した。