桑都・八王子から駐屯&太田屯田兵村の桑並木 <海のシルクロード>東端の到達点
  桑都・八王子から駐屯&太田屯田兵村の桑並木 <海のシルクロード>東端の到達点

 絹への強い思い入れ。そうした歴史過程で生じた<あこがれ&悲哀>を想定する事柄二題。
 寛政11年5月、兼ねて申請のあった甲州街道を守護する八王子同心の蝦夷地警備が認められた。
 蝦夷地でものちの胆振国勇払の地と、同じく釧路国白糠の地ながら、この二点を選定したのは移住を受け入れる幕政担当者であった。

 1)蝦夷地内で農耕・蚕業も可能であり、人手が多数あれば開地のうえから好適、
 2)ことに蚕業の地たる八王子からの移住は好ましく、警備の上でも従来の経験が生かされ、
 3)将来は一行の中から、蝦夷地政策を担当する者を選んで委任させることができるかも。

 『休明光附録 巻之四』書斎の「六」文書にはそうした記載がある。
 農耕に、かつ養蚕業適地で勇払、白糠を選定したわけではない。勇払は勇払川―石狩川経由で太平洋―日本海を結節。白糠は阿寒川経由、網走川で太平洋とオホーツク海を結ぶ。
 当時、政策課題であった「樺太―千島 双方向体制」を維持する、共に好適地であったのだ。

 甲州街道沿いで「江戸警備のため農耕兼業」の集団は、近代において「屯田兵」として制度と警備思想が継承されている。
 その屯田兵の一団に「太田屯田兵村」があるが、現在、兵村中心部には委嘱した「桑並木」が残されている。
 北海道開拓使の初期統計をみると、「養蚕」の統計項目に「太田」があるも、実績は空欄となっていた。

 志は尊かったが、実績を残すこともできなかった。しかし、注目すべきことがないでは、ない。
 幕末の統計に「ネモロ 鰊粕 17581貫」「ネモロ 鰯粕 5056貫」や「アッケシ 鰯粕」などの記載を読むと、横浜・兵庫開港後の「江戸地廻り経済」が<厚み>を増したことをうけ、そこに寄与した流通があったのかと、想定される。
 つまり、横浜を通じた生糸輸出に直接の関係は薄いが、間接的機能は当然あった。そうした作業仮説を用意しておく。