2019 09/30 06:30
Category : 記録
道東の片隅で<うぶ声>をあげた『北海文学』。その草創期の<息吹>を感じさせるポイントが表現されている。
原田康子著「富士見坂」。これを2000年に新潮社から発売された『父の石楠花」というエッセー集で読ませてもらった。
原田康子氏は続けて、
宇多治見も故人となった同人のひとりである。彼は昭和三十年の二月に同人に加わり、翌三十一年一月、自裁=じさい と見られる形で二十六歳の生涯を閉じた。同人であった期間は短かったが、その間、彼は「北海文学」に「死の誕生」と題する長篇を連載していた。鳥居省三をしてガリ版の鉄筆を握らしめた理由の一つは、宇多治見への大いなる期待であったろう。(60p)
私にかぎっていえば、宇多治見はひさびさにあらわれた好敵手であった。私は彼のするどい感性をみとめていたし、鳥居省三がわたしよりも宇多治見に肩入れをしているふしが見受けられたので、少々ヤキモチを焼いていた。(62p)
原田康子著「富士見坂」。これを2000年に新潮社から発売された『父の石楠花」というエッセー集で読ませてもらった。
原田康子氏は続けて、
宇多治見も故人となった同人のひとりである。彼は昭和三十年の二月に同人に加わり、翌三十一年一月、自裁=じさい と見られる形で二十六歳の生涯を閉じた。同人であった期間は短かったが、その間、彼は「北海文学」に「死の誕生」と題する長篇を連載していた。鳥居省三をしてガリ版の鉄筆を握らしめた理由の一つは、宇多治見への大いなる期待であったろう。(60p)
私にかぎっていえば、宇多治見はひさびさにあらわれた好敵手であった。私は彼のするどい感性をみとめていたし、鳥居省三がわたしよりも宇多治見に肩入れをしているふしが見受けられたので、少々ヤキモチを焼いていた。(62p)