2018年08月の記事


地獄を見てきました
大阪の平野にある全興寺さんへ行って来ました。

全興寺さんは、聖徳太子が平野の地にお堂を建てて薬師如来像を祀ったのが始まりといるお寺です。

全興寺さんと言えば、有名なのが閻魔大王を祀った地獄堂ですね。

小さな地獄堂に入ると正面に閻魔大王の像があり、左には冥界の役人の像があり、右には奪衣婆や鬼が亡者を責めたりしています。

閻魔大王の銅鑼を叩くと浄玻璃の鏡に地獄の様子が写し出され説明の声が流れると言う仕掛けになっています。

他にもガラスの涅槃像や地下のほとけのくに、西国三十三ヶ所石仏とかいろいろな仏様があり、お参りしながら楽しめる感じになっています。

いろいろツッコミたい所も多く、もうお腹いっぱいになりますね。

また、お参りに行きたくなるお寺でした。
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生六道地蔵菩薩
京都の嵯峨野にある薬師寺さんの地蔵盆の特別御開帳へ行ってきました。

薬師寺さんは嵯峨釈迦堂こと清涼寺の境内にある小さなお寺ですが、基本的に非公開のお寺です。

しかし、年に1度の8月24日の地蔵盆にのみ本堂を御開帳して一般も拝観出来るのです。

この薬師寺さんには、弘法大師作と言われる御本尊の心経秘鍵薬師如来像や、恵心僧都の作と言われる阿弥陀三尊像があります。

そして、私が一番見たかったのは小野篁作と言われる生六道地蔵菩薩像です。

小野篁と言えば、冥府へ通い閻魔王の副官として働いていたとか、六道珍皇寺の通いの井戸から冥府へ行っていたと伝説されています。

その六道珍皇寺の通いの井戸が冥府へ行く井戸であるなら、冥府から現世へ帰るのは帰りの井戸が、嵯峨野の福生寺にあり、その場所を生の六道と呼ばれていたと伝説されています。

しかし、その福生寺は今は無く、清凉寺にある薬師寺と一緒になり、福生寺の仏像などは薬師寺へ移されました。

その中の生六道地蔵菩薩は、かつて小野篁が地獄へ赴いた折に、地獄の火焔の中を歩く僧を見かけました。

僧の身でありながら、どんな悪事で地獄へ落されたのかと僧に問うと、僧は、この地獄の火焔のに苦しむ亡者を救うために、亡者に代わって苦難を受けているのだと答えました。

小野篁が、驚いて僧を見直すと、それは高貴な僧の姿であり、我が身を犠牲にして庶民を救おうとする大慈悲の生六道地蔵菩薩の姿だったのです。

小野篁は現世に戻ると地獄で見た生六道地蔵菩薩の姿を彫って仏像とし、嵯峨野に福生寺を建てて、仏像を安置したと言う伝説になっています。

先に書いたように、その生六道地蔵菩薩は福生寺から薬師寺へ移されて、年に1度の8月24日の地蔵盆に御開帳されるのでした。

小野篁ファンとして、前からずっと見たかった生六道地蔵菩薩さまは落ち着いた静かな表情の地蔵菩薩様でした。

その、地蔵菩薩さまの横には、小さな小野篁像と閻魔王の像も祀られていました。

ずっと見たかった仏像をやっと見ることが出来て感動してました。
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地蔵盆
京都では、8月の23日や24日に地蔵盆が行われる所が多いですね。

地域や町内で日にちややり方も違うのでしょうが、地蔵盆は子供のお祭りみたいな感じがしてて、夏休みの終わりに近いお祭りのように思えてました。


地蔵盆は、江戸時代くらいから始まって、当初は地蔵会や地蔵祭とされてたそうです。

そもそも京都は石のお地蔵様が多く、お祀りしている町内も多いですね。

これは何かで聞いた話ですが、京都は葬送地が多く昔はそういう場所に墓代わりに石仏を置いたりしたのが、大雨や川の氾濫で流れたり、戦火で焼かれて埋もれたりしてました。

それが後に川や水辺でお地蔵様が見つかったり、土の中から掘り出されたりして、ありがたがられて町内や家に持ち帰られて祀られたのが始まりだそうです。

伝説でも、川や土から仏像が出たりは多いですよね。

そういう石仏は、本来は何か判らないけどお地蔵様として祀られる事が多く、お地蔵にするために顔を描いたり色を塗ってお化粧したりが始まったと聞きました。

こうして町内での盂蘭盆会などで地蔵会や地蔵祭が、お盆の行事として地蔵盆へとなって行ったそうです。


しかし、明治時代になり神仏分離や近代化を進めるのに、地蔵盆や盆踊りや盂蘭盆会などの行事は根拠のない仏教行事として中止のお触れが出て中止させられたそうです。

それで、町内の地蔵堂は壊されたりして、石仏は近くのお寺へ預けたり、見えない奥に隠されたり、町内の人が家に隠したりしたそうです。

京都のお地蔵様が路地の奥にあったりするのはこういう名残かも知れないですね。

また、お寺に小さなお地蔵様が置かれてるのは、預けられたからが多く、例えば壬生寺とかたくさんの石仏があるのはそういう事からだそうです。

しかし、京都の知事が代わると方針も変わったのか禁止のお触れが撤回されて、再び町内でお地蔵様が祀られて地蔵盆が復活していったそうです。

この地蔵盆は余興と言うか出し物があったり、福引きがあったり、お楽しみ要素が濃いのも面白いですね。


私も実家の隣が地蔵堂だった事もあり、子供の頃は地蔵盆が楽しみでした。

大きな行灯に町内の子供が絵を描いたり、お菓子や福引きがあったり、地蔵堂に集まって数珠回しさせられたりありましたね。

私の子供の頃は、地蔵盆の夜に子供が集まって、巡査と泥棒に別れて隠れんぼする泥巡するのが恒例でした。

町内の子供が集まる機会って、地蔵盆くらいしか無くて、年に1度の交流の場だった気がします。

あれこれと思い出すと懐かしいですが、最近は住宅環境の変化や町内会のあり方も変わりましたし、マンションなどの集合住宅が増えて、諸事情で地蔵盆も変わってきてるみたいですね。

町内ではなく、団地などで個別にやったりもあり、各家や個人の宗教感も変化してますし、仕方ない部分もあるのかも知れないですね。

京都では、まだまだ地蔵盆を行っている所も多く、見かけると郷愁を感じてしまいます。
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六地蔵巡り
京都の六地蔵巡りをしてきました。

六地蔵巡りは、毎年の8月22日と23日に行われるお盆の行事です。

平安時代の初めに、小野篁が作ったお地蔵様を巡って行きます。

小野篁は849年(嘉祥2年)48才の時に熱病を患い意識を失って、地獄に落ちた人々の苦しんでいる姿を見ました。

その時一人の僧が人々の苦難を救っている場に出会いました。

その僧は「私は地蔵菩薩である」と名のられ「この地獄だけでなく、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上など六道の迷いの世界を巡りながら縁ある人々を救っている。全ての人を救いたいが、縁のない人を救う事はできない。私にとっても残念な事だ。貴方はこの地獄の苦しい有様と地蔵菩薩の事を人々に知らしめてほしい」と聞かされました。

そして蘇った篁は、木幡山から1本の桜の木を切り出して、六体の地蔵菩薩像を刻み六地蔵の地に納めました。

その後1157年(保元2年)に後白河法皇の勅命により、平清盛が西光法師に命じて、京都の街道の入り口である六ヶ所に六角堂を建て、一体づつ地蔵像を分置されました。

そして、最初に六地蔵巡りをされたのが、西光法師と言われます。

これが六地蔵巡りの始まりとされています。

六地蔵は、常磐地蔵(源光寺)・鞍馬口地蔵(上善寺)・山科地蔵(徳林庵)・鳥羽地蔵(浄禅寺)・伏見六地蔵(大善寺)・桂地蔵(地蔵寺)の六ヶ寺をまわります。

六ヶ寺ですが、西は桂と常磐から東は山科、北は鞍馬口に南は上鳥羽と六地蔵と京都の四方にまたがるので、交通機関が不便な所もあり、割りと大変ですが多くの方がお参りにまわっておられます。

私も2日かかって満願する事が出来ました。
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幽霊絵馬供養
昨日に幽霊絵馬のお話を書きましたが、今日は、幽霊絵馬供養があったので革堂までお参りに行きました。

幽霊絵馬は本堂の真ん中に置かれていました。

消えそうな幽霊の姿と形見の手鏡が嵌められています。

本物を間近で見るのは初めてで、ようやく見れたと言う感動と供に悲しげな姿に胸がつまりご冥福をお祈りいたしました。
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幽霊絵馬
寺町通りを丸太町通りから下がって行った所に「革堂」(こうどう)と通称される行願寺がある。

ここは、開祖の行円上人が、俗世の頃に鹿を射て殺した事を悔いて仏門に入り、つねに鹿皮の着物を着ていたので、皮聖とか革上人と呼ばれたので革堂と通称されるようになったそうだ。

この革堂は西国三十三所巡礼の札所でもあり、昔から訪れる巡礼も多い。

幕末の頃、この近くに質屋さんがあり、お文と言う十歳の娘が親許から離れて子守りとして奉公していた。

お文は、子供を背負っては革堂に来ていたので、いつの頃からか巡礼の唱える御詠歌を覚えて口ずさむようになっていた。

ところが、質屋の主人は強欲非道で近所でも評判が悪い男で、お文が口ずさむ御詠歌が気に入らない。

何度も御詠歌を止めるようにお文に言いつけていたが、お文も習慣になっているので、つい口ずさんでしまうことがある。

ある日も、お文は子守りをしながら、つい何気なく御詠歌を口ずさんだのを主人に聞かれてしまい、かっとした主人はお文を激しく殴って折檻してしまう。

お文は、打ち所が悪かったのか倒れたままで動かなくなり、主人があわてて介抱したがそのまま息を引き取ってしまう。

主人はまずいことになったと、お文の遺体を納屋の下に埋めて、お文の親許にはお文が行方不明になったと連絡した。

お文の両親は驚いてやってきて、質屋で話を聞いたりしてあちこちと娘の行方を探したが見つからない。

困り果てた両親は、お文がよく来ていたと言う革堂に篭もって娘の無事を願っていたが、ある夜に両親の枕もとにお文の亡霊があらわれてこれまでのいきさつと主人に殺されて埋められた事を告げた。

嘆く両親に、お文は母親からもらって大切にしていた手鏡を残して消えていった。

両親は、手鏡を証拠として奉行所に訴えでると、奉行所でもいろいろと調べた結果、お文が納屋に埋められているのを見つけ出して質屋の主人を捕まえた。

両親は、お文の遺骸を手厚く葬ると、お文の幽霊の姿を描いた絵馬と、遺品の手鏡を革堂に奉納した。

今でも、革堂には絵馬と手鏡が残されているそうだ。

むかしは、奉公人にとって主人は絶対であり勤めている者にとって辛く哀しい話は他にもいくつでも残されているのだろう。

今でも、お文の絵馬は本堂の十一面観音の横の方にひっそりと収められているそうで、杉板に手鏡をはめ込まれていると言う。

絵馬に描かれたお文の姿は今では輪郭もつかめないくらいになってしまったそうであるが、お盆には幽霊絵馬供養が行われ毎年公開されていると聞く。
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お施餓鬼法要
京都の戒光寺さんへお参りして来ました。

戒光寺さんは、泉涌寺さんの塔頭で丈六釈迦如来像を御本尊としている事から丈六さんとも呼ばれています。

ちなみに丈六とは、仏像の背丈 (丈量 ) の基準で、仏は身長が1丈6尺 (約 4.85m) あるといわれることから仏像も丈六を基準とされ、その5倍や10倍、また2分の1などの大きさで造られたりします。

戒光寺さんの丈六のお釈迦様は10メートルくらいある大きさで、初めてお参りする方は意外な大きさに驚かれますね。

8月20日は、戒光寺さんではお施餓鬼法要が行われ、六道輪廻図などが公開されるので、お参りしてきました。

時間の都合で法要には参加出来ませんでしたが、六道輪廻図などは見る事が出来ました。
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不思議な出来事
不思議な事がありました。

今日、あるお寺の庭を歩いていて黒い塊が落ちてました。

ゴミかと思ってよく見ると甲羅が真っ黒になったカメでした。

まるで焼いたのかペンキでも塗ったのかと思うくらい真っ黒でしたが顔は普通でした。

行き過ぎてから日差しも暑いから池まで運んでやろうと振り替えるとカメはどこにもいなくなってました。

高速で移動したのでしょうか、周りを見てもいませんでした。

あれは何だったのでしょう?
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一言寺
京都の一言寺こと金剛王院さんへ行ってきました。

一言寺(いちごんじ)さんは、もとは藤原通憲の娘で建礼門院に仕えた阿波内侍の開基により創建されたと伝えられています。

一言寺の名は、軒下に奉納されている額の「ただたのめ 佛にうそは なきものぞ 二言といわぬ 一言寺かな」という御詠歌から、一言寺と通称されているそうです。

8月17日は、一言寺さんの夏祭りで夜には火渡り行が行われます。

私がお参りしたのは朝だったので、まだ準備中でした。

御朱印をお願いしたら、ご住職がお忙しくて出かけてられたので、書き置きの御朱印ですがと言われて、わざわざ本堂も開けていただいて、親切に対応してくださりました。
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金閣寺
京都の金閣寺さんへ行ってきました。

金閣寺さんと言えば、京都でも人気の観光寺院ですね。

毎日多くの観光客で賑わっています。

その金閣寺に石不動堂があるのはご存知でしょうか、出口近くの御朱印所の向かいにあるのがそうですね。

石不動明王がお祀りされてるのですが、秘仏として非公開で通常は拝観する事は出来ません。

しかし、8月16日は石不動明王・盂蘭盆会御開帳として、秘仏の石不動明王を拝観出来るので行って来ました。

石不動堂への拝観も有料でしたが、仏像の裏から入れるようになっており、岩屋のような中に石で彫られた不動明王が祀られていました。

普通の不動明王のように怒りの表情ではなく、穏やかなお顔の不動明王でした。
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一休寺
京都の京田辺にある一休寺こと酬恩庵へ行ってきました。

一休寺の名のように、あの一休禅師が晩年を過ごしたお寺で、お墓も境内にありますが天皇の血を引く身分なので、墓地は宮内庁の管轄になっています。

一休寺では、毎年8月15日・16日に、曝涼(虫干しの意味)として「観音三十三身図」の掛軸を方丈にかかげます。

これは江戸時代の絵師である原在中の筆によるもので、法華経の観世音菩薩普門品に説かれる観音様が、三十三身に変化する教えや功徳が具体的な場面をもって極彩色で描かれています。

私も昨年も拝観に出かけたのですが、観音三十三身図が素晴らしいので、今年も拝観に出かけました。

朝だったの拝観者も少なくてゆっくりと見る事が出来ました。

保存が良いので色もきれいで、いろいろな姿の観音様が良いですね。

お庭は新緑にかこまれて秋には紅葉できれいでしょうね。

一休さんの小僧さんの頃の像や「このはし渡るべからず」の橋なども作られていて、拝観者を楽しませてくれます。

京田辺は、私が高校時代に近鉄の新田辺まで通学していた場所なので、訪れると懐かしさを感じますね。

遠出になりましたが楽しく過ごせました。
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五山の送り火
京都でお盆の行事と言えば「五山の送り火」が有名である。

よく「大文字焼き」と言われるが「大文字の送り火」言うのが正しくて、「大文字」の他にも「左大文字」「妙法」「舟形」「鳥居形」の五つが、京都を囲む五つの山で送り火を焚かれる事から五山の送り火と言うのが正式な呼び名である。

送り火と言われるようにお盆の先祖供養の意味を持つ行事で、お盆に帰ってこられた精霊をお見送りする意味を持つものである。

五山を東から紹介していくと

「大」(右大文字)は東山の如意ヶ嶽にある大文字山。

「妙法」は妙と法の二つの文字で、「妙」は松ヶ崎の西山(万灯籠山)、「法」は松ヶ崎の東山(大黒天山)。

「舟形」は西賀茂の明見山。

「大」(左大文字)は西部にある金閣寺の近くの大北山。

「鳥居形」は北嵯峨鳥居本の水尾山(曼荼羅山)。

の五山であり、五つを全て見えるところは市内南側の高い建物が良いそうである。

昔には五山の他にも「い」(市原野)、「一」(鳴滝)、「竹の先に鈴」(西山)、「蛇」(北嵯峨)、「長刀」(観空寺村)などの送り火もあったが、明治や大正に途絶えて行ったそうだ。

その中でも、「大文字の送り火」と言われるくらいに「大」の送り火が有名である。

五山の送り火それぞれに発祥のいわれがあるようで、その起源も諸説がありはっきりとはしないそうである。

その「大」の字の由来についての伝説が幾つかあるのだが、それを紹介したいと思う。

京都の左京区にある「銀閣寺」は有名な観光名所であるが、その門前の北側に「浄土院」と言うお寺がある、「大文字寺」と通称されているお寺である。

平安初期の話だが、 この大文字山の麓に浄土寺と言うお寺があった。

「説1」浄土寺の御本尊の阿弥陀如来像が光明を発しておられるのを通りがかった弘法大師・空海が見つけて、空海はこの光明を未来に残して人々の極楽往生の機縁にしようと思い立ち、「大」の一字に封じこめて、山の峰に十丈四方の筆跡を残したという。

「説2」その浄土寺が大火に見舞われた事があり、その折に御本尊の阿弥陀如来が山上に飛翔して光明を放ったと言い、この光明を真似て実施していた火を用いる儀式を「弘法大師」が大の字形に改めた。

「説3」室町中期の延徳元年(1489年)に、「足利義政」が近江の合戦で死亡した実子であり将軍でもあった「足利義尚」の冥福を祈るために家臣に命じ始めた言い、「大」の字は山の斜面に白布を添え付けて、その様子を銀閣寺から相国寺の僧侶である横川景三が眺め定めた。

「説4」江戸初期に本阿弥光悦、松花堂昭乗とともに当代の3筆といわれた能書家である「近衛信尹」(このえのぶただ)が創設したそうで、寛文2年(1662年)に刊行された「案内者」に「大文字は三みやく院殿(近衛信尹)の筆画にて」との記述があるそうである。

このように「大」の字、一つの由来に関しても平安時代から江戸時代まで諸説があってはっきりしないのである。

大文字寺と言われる浄土院は、浄土院の前身の浄土寺が天台宗の大寺院だったが、数度の火災や戦火に見舞われた後に文明14年(1482年)に足利義政が東山殿(現在の銀閣寺)を造営するに折に、相国寺の西に移転したそうだ。

跡に残った草堂を泰誉上人が浄土宗に改めて浄土院と名付け再興され、享保17年(1732年)には随誉上人により堂宇を整備されたそうだが現在の伽藍は昭和の再建だと言う。

大文字寺と言われるのも大文字の送り火の世話を行って深く関わっているためだと言う。


その他の送り火についても、その起源を簡単に述べると

「妙法」:「妙」は鎌倉時代末期に日蓮宗の僧・日像が妙の字を書き点火したのが起源ともされ、「法」は近世初期に始まったと伝えられる。

「舟形」:西方寺の開祖である慈覚大師が847年の唐留学の帰路に暴風雨にあったが、南無阿弥陀仏を唱えて無事帰国できたことから、その船を型どって送り火を始めたとも伝えられる。

「左大文字」:前述の1662年刊行の「案内者」にも左大文字の記述はないことから、大文字、妙法、船形の3山より遅れて登場したと考えられ、大の字に一を加えて「天」とした時代もあったそうだ。

「鳥居形」:弘法大師が石仏千体を刻み、その開眼供養を営んだ時に点火されたとも伝えられ、鳥居の形から愛宕神社との関係も考えられてるそうである。

五山の送り火は午後8時に右の「大」の字が点火されてから、「妙法」「舟形」「左大文字」と西に向かって5分おきに点火されていき、最後の「鳥居形」が午後8時20分に点火され、それぞれ約30分の間、燃え続けることになっている。

「大」の字を水を入れた杯に映して飲むと健康になるとも言われているようだが、精霊送りの意味を持つ荘厳な儀式で、京都の三大祭である「葵祭」「祇園祭」「時代祭」に五山の送り火を加えて、京都四大行事と称することもあるようだ。


追記として、送り火についてあれこれ問題となっているので、実際の送り火の運営について、少し書きたいと思う。

送り火の、実際の運営にあたっているのは、各送り火ごとに保存会があり、昔からそれぞれの地域の人たちで、労力、費用ともその地域の人たちだけの努力で続けられてきたそうだ。

最近になって「大文字五山送り火協賛会」が京都府、京都市、文化財保護財団、観光業者の構成で結成され、行事をバックアップする体制が出来てきたのである。

今では京都市と市民に密着した行事でありすでに書いたように、葵祭、祇園祭、時代祭と並び、四大行事となっており、行事全体が無形民俗登録文化財に指定されていると言う。


さて、五山の送り火がどのようにして点火されるのか、東山如意ヶ嶽の大文字の場合、毎年春先になると大文字山頂の松林を伐採して、送り火に使う薪(まき)が作られる。

この護摩木と呼ばれるその薪は、神聖なもので大切に各家で保管されるのである。

もしこの薪を粗末にあつかったり、送り火以外に使ったら、その家に不幸があると伝えられてもいて、また当夜、自分の担当している火床の燃え方が悪かったり、火の付きがよくないと、やはり家に良くないことが起こるとも考えられているそうだ。

薪は如意ヶ嶽では送り火の当日にケーブルで山にあげられるが、他の四山では人力で上げられていて労力は大変なものであろう。

大文字で使用する薪は600束、松葉100束、麦わら100束が使われるそうだ。

それを大谷石で出来た火床に薪を井桁に組み、その間に松葉を入れ、その廻りを麦わらで囲み火の勢いを強くすると言う。

点火は一軒で二つの火床を担当して、松明(たいまつ)の合図で、一斉に点火される。

当日は地元の消防署員と、京都市からも職員が山に上がり立ち会い、保存会の人たちは火が完全に消えるのを確認してから、山を下りるので山を下りるのは10時以降になるのだそうだ。

このように、一連の行事は夏の暑い中での仕事で、大変な労力を必要としているのである。


また、過去には大文字の点火中止騒ぎもあったのである。

火床修理に少しの補助金しか出さない京都市への不満、残り火の管理責任が問題になった時に送り火を「たき火」あつかいした市消防局、ホテルの屋上などでお金を取って送り火をショー的なイベントとしかとらえていない観光業界などなど、保存会の人たちの感情を逆撫でするような問題などがあり、点火中止騒ぎに成ったことがある。

この問題が新聞で大きく報道されると「大文字の火を消さないで」と市民からは続々と寄付金が寄せられ、あれだけの大行事をほとんど地元負担でしていた事実、また送り火の意義を世間が再認識する事件でもあったと言えるだろう。

こうして、保存会、関係箇所等の努力により五山の送り火は現在まで絶えることなく続けられているのである。


さて、送り火の当日、午前中に大文字は銀閣寺山門前で、左大文字は金閣寺境内で、鳥居形は地元の鳥居本の土産物店等で保存会が、護摩木の志納(300円)を受け付けている。

護摩木には願い事を書いて保存会に託され、その護摩木は送り火として焚かれるので、様々な思いのこもった送り火と言う事になるのであろう。


五山の送り火は、様々な思いの篭ったお盆の行事であり、ご先祖の精霊が穏やかにお送りできるように祈りたいと思う。
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万灯供養
大阪の四天王寺の万灯供養へ行ってきました。

四天王寺さんは独特の雰囲気があって、時々お参りに行っています。

先日の千日まいりに行きたかったのですが、用事が出来て行けなかったので、盂蘭盆会の万灯供養にはとお参りに行きました。

経木を書いてもらう人や、万灯ろうそくを書いてもらう人が朝から訪れていてお盆独特の雰囲気も良いですね。

私も万灯ろうそくで供養したかったのですが、実家の方でやってるでしょうし、あちこちでやるのもどうかと思うので止めておきました。

お盆の時期で拝観も自由だったので、あちこちとゆっくりお参りして周りました。
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陶器祭
京都の五条坂で7日~10日まで行われている陶器市へ行ってきました。

五条坂にたくさんの露店が並んで陶器などを売っていて、昔から京都の夏の風物詩になっていますね。

私も可愛い陶器のお人形を買ってしまいました。

また、五条坂にある若宮八幡宮・陶器神社でも陶器祭が行われていました。

境内には陶器やお皿で作られたお人形が飾られていました。

他にもお店やワークショップとかもされていて、いろいろと楽しめましたよ。
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六道まいり
今日から10日まで、京都の六道珍皇寺で六道まいりが行われます。

六道珍皇寺のある地域が,この世とあの世の境目の六道の辻と言われる場所である事と、六道珍皇寺には祖先の霊を迎える迎え鐘があることから、お盆に帰ってくる精霊をお迎えする行事として親しまれています。

早朝から多くの方が訪れて、高野槇をを買ったり、水塔婆を書いてもらったりしています。

また、迎え鐘には多くの人が行列を作って鐘を曳いて(撞くのではなく曳きます)精霊をお迎えされています。

六道まいりに来ると、日本のお盆が始まったなぁと感じられて良いですね。
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箸供養
今日は、8月4日で、京都の宇治にある橋寺こと放生院常光寺さんへ行ってきました。

橋寺さんと言えば、宇治橋との関わりも深い事から橋寺の名で親しまれ、境内にある宇治橋断碑は日本三古碑の一つとされています。

その橋寺さんは8月4日は(はし)に通じる事と、また箸にも通じる事から、毎年8月4日には箸供養の法要を行われています。

私も前から興味があったので、箸供養に参加するのに出かけたのでした。

少し早めに橋寺へ行っていると、やはり箸供養に来られた御老人の方とお話しさせていただいて、いろいろと親しくさせていただきました。

この箸供養はお寺だけの行事ではなく、宇治市文化愛護協会が主催されてるそうでした。

参加されるのも協会の方が多くて、一般参加は私を含めて少しだったようでした。

それでも、暑い中を20名程度の方が参加されてました。

10時になると法要がはじまって、御住職が読経されて参加者の焼香が始まり、読経が終わると少し法話をされて、今年の暑さについていろいろと話されました。

続いて、本堂の仏像の自由拝観が始まり、いろいろな仏像を間近で見ることが出来て、内陣の奥にまで入れました。

御本尊のお地蔵さまはほんとうにきれいなお顔をされてて私の好きなお地蔵さまでもあるのですが、副住職の方からいろいろと説明やお話をしていただき、実はお地蔵様の内部に隠し場所みたいなのがあり、巻物のような物があるようですが、封印されていて解体でもしないと取り出せないようになっているそうです。

その後は、協会の方による箸の文化や歴史についての講習会が行われました。

箸の歴史や中国における箸文化の歴史とか教えていただきました。

新嘗祭や神嘗祭になぜ嘗の字が使われるのか、また、「はし」と言う言葉は物を渡すと言う言葉で、間を渡すものが「橋」となり、上と下を渡すものが梯となり、物を移動させるものが箸となったとか興味深いお話でした。

法要や講習会でも堅苦しい感じは無くて和やかな雰囲気で楽しめましたし、貴重な経験やお話をうかがえて良かったでした。
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八朔
今日は8月1日で八朔の日ですね。

八朔とは八月の朔日(ついたち)の事ですね。

京都の花街では、芸妓さんや舞妓さんが八朔の日にお店やお世話になってる方に御挨拶して周る習慣があります。

御茶屋さんや先生のお宅には芸妓さんや舞妓さんが来るだろうと、カメラを持った人でいっぱいになります。

私も写真を撮りたくて祇園新町の巽橋の横に陣取って待機しましたが、橋の周辺には多くのカメラマンやテレビの取材もひしめいていました。

近くに井上流のお宅があるのと御茶屋さんもあるので通られるのは確実なんですけどね、でもだいたい10時くらいからが判ってるだけで、いつに何処からどういう風に来るのかは本人次第で判らないですからね。

10時前に1人の芸妓さんが橋を通られたからは、後ろから来るのか、前から橋を渡るのか、四方に気を配りながら、人の動きで予想しながら、何とかたくさん写真を撮れました。

芸妓さんは正装となる黒紋付がきりりとして素敵ですね。

京都はカンカン照りの暑さですけど、その暑さの中で化粧して着物を着こなしてられるのに尊敬してしまいます。

11時過ぎまで粘りましたが、間近で見れたのと写真もいっぱい撮れて楽しかったです。
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