2022年09月の記事


経営者がマチなかで汗と投資 白老町で「歩いて巡る屋外写真展」=北海道 NEWS WEB220928
経営者がマチなかで汗と投資 白老町で「歩いて巡る屋外写真展」=北海道 NEWS WEB220928
 
 そこには見学者と主催者のコメント。紹介されている。
(見学者)「おもしろい企画だと思いました、漁や子どもたちの写真が印象に残った」。
(主催者)「海風浴びながらゆっくり歩いて土地の記憶を感じる体験楽しんでほしい」。

 会場には、昭和30年代から40年代にかけての町の日常を切り取ったおよそ40枚の写真。それが拡大され、倉庫や空き家の外壁に展示されている、と。
 なかでも、社台地区の海岸沿いにある倉庫に張り付けられた写真は大きさが縦4.6メートル、横8.9メートル。
 
 実に、この写真展で最も大きい作品の1つで、大勢の漁師たちが力をあわせて船を陸揚げする様子から漁業で活気があふれていた当時の息づかいを感じさせる。
 そのように伝える。

 見学者は東京から訪れた40歳の男性。「昔の人が漁をしている写真や、子供たちの写真などが印象に残りました。おもしろい企画だと思いました」。
 写真展を企画した実行委員会の木野哲也企画プロデューサー。
 こちらも40歳代をおもわせる若手経営者。
 「海風を浴びながらゆっくり歩いて、この土地の記憶を感じる体験を是非楽しんでほしいです」と話していました。
 
 写真展は、10月10日まで開催ではあるも、なかには「このまま、展示を続ける」。そうした意欲も発掘したようで、実に頼もしいでは、ないですか。
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「苧足糸 ヲタ・エト」の地名を聴くも ぶぶる釧路街歩き2nd-続-220922
対岸に「苧足糸 ヲタ・エト」の地名を聴くも “石炭・鉄道の地”から“海洋・汽船の地”を ぶぶる釧路街歩き2nd-続-220922

「原田さんの作品に<オタエト>の地名があって・・・・」。
2022年9月22日午前、釧路川右岸の岸壁を歩きながら、ご参加のお一人から提案が。
念頭に浮かんだのが掲載の銅版画画像。『北海立志図録』という書に掲載の絵柄。

釧路港の修築で姿を消したのである、が。
釧路川左岸にシッカリと<舌状>の砂州が発達していた時代がありまして。
その砂州が由来となって、アイヌ民族の言葉に語源をもつ「ヲタ・エト=ota・etu 砂浜・岬」、もしくは「沙の・岬」が命名されてきましたです、よ。

その砂州の付け根には、釧路川にとって明治期の新時代、その到来を意味する著名な施設が設けられます。
「硫黄山安田事務所釧路出張所」。『北海立志図録』の図柄タイトルにある施設です。
川湯・硫黄山で採掘した硫黄原石を標茶の精錬所で製品化します。釧路川を下る川舟で到着したのが、画像の位置。現在の釧路シーサイドホテルの先にあった砂州の付け根です。

砂州の地形は明治41年から始まる釧路港の修築工事で消えました。
河口に防波堤を建設し、釧路川下流部の水深を確保するため浚渫=川底の掘り返しと土砂の除去をおこなったためです。
佐々木米太郎翁は昭和7年8月、その「ヲタ・エト=ota・etu 砂浜・岬」の地を「入舟」と呼ぶことにしました。

正確には「ヲタ・エト=ota・etu 砂浜・岬」を「苧足糸」と書き、読んでいました。
そこに、次の命名理由を書き加えています。注目しましょう。
「旧名入舟町の一部及苧足糸の一部に属し大半は明治34年の埋立地である釧路川左岸内港部」。
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雑穀集荷と出荷のシステム 1930年前後の釧路港220922―後―
 最終回は1998年3月9日の『釧路新聞』文化面掲載記事に加えて、お二人の見聞をもとに現行の図面に昭和5年当時の施設を挿入してみました。

 お一人は昭和16年のお生まれで、南浜町に暮らして三代 100年となるお孫さん。もうお一方は昭和6年かの生誕で、南浜町から「下渡船」で「釧路市立東栄小学校に通学」された、経歴の持ち主(当日は腰痛とやらで姿、お目にかかれず)。。

市制十周年写真帖 前回、トンケシにあった「撰穀工場」と、「港頭雑穀野積みの景」という二点の写真を紹介した。本欄に掲載直後、読者の方から拙宅へお電話をいただいた。「港頭雑穀野積みの景」の写真で、雑穀俵の上にしゃがんでいる男性は「父の横顔にそっくり」とのお話であった。実家は確かに「撰穀工場」を経営されており、俵から何やら指揮らしいことをしているのは、父そのものとのお話である。
 その「撰穀工場」と「港頭雑穀野積みの景」の写真は、「市制施行十周年記念」写真帖から複製した写真である。それは昭和七年八月一日に挙行された、市制施行十周年記念式典を期して調整され、同年十二月十日に清野写真館が撮影と編さんをすすめた。今となっては戦前の市街地写真の貴重な記録である。
 早速、複製写真をお送りしたところ、重ねてお電話をいただいた。写真の人は
電話の主のお父上に間違いがない。高橋吉之助という方で、現在の海運合同庁舎のところに、ヤマキ高橋撰穀工場の名で、作業場と住宅を併設した工場をもっておられたのだそうである。また「撰穀工場」と紹介した作業場の風景は、その工場内部の写真に違いあるまい、とのお話であった。写真帖では撮影場所についての情報が記載されていない。往時の雑穀取扱の風景を紹介したにすぎないが、今ひとつ写真に関する固有情報が、蓄積されたわけである。(拙稿「昭和七年、北大通の景観」 くしろ歴史の風景―30―)
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地域経済&環境保全を再構築 グリーンピースの<地産地消>でもう一話220926
 地域経済&環境保全を再構築 グリーンピースの<地産地消>でもう一話220926

 9月22日午前に催行の「ぶぶる釧路街歩き2nd」で、山木屋浦田菓子舗さんの銘菓「しとき」(写真)で<おもてなし>がありました。
 参加者のお一人・ちえこさんが心配りをしてくださって、参加者を歓ばせてくださいました。
 「ちえこさん、しとき、驚きの美味しさ?ご馳走様でした〜?」。参加者のお一人からの<貴重な感想>です。

 催行ツアー、今回の題材・それは「(世に申した)原田御殿」は、どのような背景で成立したものか、その位置はどこか。
 成立の背景には「第一次世界大戦でヨーロッパが戦場に化し、洋食用グリーンピースに大量の海外むけ需要が」。
 山木屋浦田菓子舗さんの「しとき」は素材が「砂糖(国内産)、青エンドウ豆、寒天、白玉、水あめ(本品製造工場では小麦・卵:乳を含む製品を生産しています)」と示されています。

 山木屋浦田菓子舗さんは明治40年かの創業。先代は旧制釧路中学校卒の、地元菓子舗。
 素材も地域の産物に思いいれて、創業115年の老舗ということに。
 「<しとき>はウチのオヤジが作った」。共栄大通三丁目1番地の菓子舗・甘秀堂の二代目中村某氏は申される。そうか、甘秀堂さんは浦田さんで修行されたのだ。

 話をもとに戻しておく。SDGS=2030年にむけ、「地球の危機」が叫ばれているではないか。他方で地方都市の中心街斜陽化も声高に主張されている。
 識者は申す。「産業構造の転換」が必要なのです、と。
 ただ、それはこれから未来に向かっての、ある意味、ひとつの実験とうことではないだろうか。

 北海道は中央の経済を下支えする<本州経済の補完地>たるの性格が色濃い。別な言い方をするまでもなく、それは本州経済の植民地たるの性格を示す。
 資源を根こそぎ搬出し、資源の価値が低下すると他に生産拠点を移し、地域に廃墟を残して、その仕上げ<優秀な人材から引き抜いてゆく>。
 地域にある本社機能は、社員とその家族に責任をもちつつ、地域の未来をも展望する。自ら付加価値を創設することなく、ひたすら搬出し、豊かな自然やそこに生息する生物すら住みにくくする、経済は持続しがたい。そうではないか。
  
 「ぶぶる釧路街歩き2nd」。催行にあわせて「青エンドウ豆」で創造した銘菓で<おもてなし>。
 単なる偶然。そう決めつけるのは、いかにも惜しいい。
 そこに女性ならではの<経験と勘、深い英知>が働いた。そう読ませていただき、この稿をむすぶことに。
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仕上げの<褒める>は「コーヒー+羊羹」セット ぶぶる釧路街歩き2nd220922 釧路芸術館
仕上げの<褒める>は「コーヒー+羊羹」セット ぶぶる釧路街歩き2nd220922 釧路芸術館

「原田御殿界わい」と銘打って開催。第二回は錦町、南浜、浪花、幸町とめぐる釧路川河畔コース。
河畔コースを<歩く>の「あそぶ」、旧原田御殿跡を訪ねて<港が雑穀輸出を支えたシステム>を「まねぶ・学ぶ」のあとは、今回、「歩く」と「学ぶ・まねぶ」を「褒める」地点に選んだのは釧路芸術館2FのCafe.
配られたメニューから、筆者が選んだのは「コーヒー+羊羹」。「煎茶+羊羹」というのもあったけれど、この日はなんとなく「コーヒー+羊羹」。

話題を転じて9月23日朝に放送の「nhBS 美の壺」。題名を見てハッとした。それは「羊羹 ようかん」。
いつも送っていただく「小城羊羹」ももちろん、登場。
江戸時代の創業。長崎街道。シュガー街道。精選した白色、透明度の高いザラメ砂糖。漆塗りの流し箱。羊羹の表面を刷毛ホーキで丁寧に<目>を入れて糖分の表出をうながす。

昭和25年から40年。駅のホームで小売りをするときの、「売り箱」も紹介されて、名物が誕生したときから成熟に至るプロセスをホンの一部が紹介された。
ネットにある「砂糖文化を広めた『長崎街道シュガーロード』が日本遺産に認定」の主要部分。
「長崎・出島をスタートして、小倉へとつながる『シュガーロード』沿いには、多くの文化財とともに砂糖の伝来がもたらした数々の銘菓があり、400年以上の時を経て育まれた文化」に触れることができる、とする。

22年9月23日朝放送の「美の壺」。むすびは、「いまオススメ おしゃれな羊羹の活かし方」。それは「羊羹を召し上がりながらコーヒーを呑む」。そかそか。
ちなみに釧路芸術館で用意していただいた羊羹。グリーンピースを材料に練り上げた逸品のように思い、感慨深かった。原田御殿を支えた港湾流通の財源。それは十勝のグリーンピースを西欧に送り届けたことにあったと、されているから。
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穀集荷と出荷のシステム 1930年前後の釧路港220922―中―
雑穀集荷と出荷のシステム 1930年前後の釧路港220922―中―

 1998年3月に紙面に投稿、のちに出版したのが、その記載をすっかり失念していた。
 記載の場所。それは『釧路新聞』紙面で「くしろ歴史の風景」、釧路新書では『街角の百年』。そうした枠組みであった。
 発端はと申すと『市制施行十周年記念 写真帖』に掲載されている二点の写真を紹介したことにあった。

 今回は2022年9月22日に開催、「ぶぶる釧路街歩き2nd」の実地見聞をもとに、図面に補注を加えて第二話。雑穀の集散地。
                   1998年3月2日 『釧路新聞』文化面掲載か

雑穀の集散地 「昭和七年 釧路市勢要覧」によると、釧路~網走間の鉄道が全通してから、十勝のみならずこの沿線の貨物が増えた。にもかかわらず鉄道から船舶への荷役施設が誠に狭少であるため、その能力限度を超えており、殊に毎秋の農産出回り期にあっては流入貨物屋外に山積みの状態であった。
農産物の中心はエンドウ・菜豆・大豆などの豆類である。エンドウはグリーンピースの称があってヨーロッパへ運ばれた。このためロンドンやリバプールへの航路が活況を呈していた。小豆(あずき)や菜豆は国内の製餡業者へ、大豆は同じく味噌・醤油の醸造業や食用油の製油業者へ、それぞれ積み出されていった。
 撰穀工場(豆選り工場)は、小豆・菜豆などを選別して等級ごとに仕分けするところである。写真で見るように、女性たちが日本手拭いの頬かむりに白い割烹着(かっぽうぎ)姿で、選別作業にあたっている。浪花町七丁目には「釧路保育園」が、昭和五年かに開設された。選穀工場に働く女性たちが子供の保育をゆだねるながらという姿も、ごく当然であった。また昭和六年までの一時期、浪花町に職業紹介所が開設されていた。こちらは港湾貨物の積み込みにあたる荷役労働者を募集し、仕事を周旋する。農産物検査所といい、撰穀工場といい、保育園といい、これまた港湾の活動と深く結びついている。
 釧路港はよく南の石炭、北の雑貨と区分される。農産物集散地のこの一帯こそ、雑貨荷役の中核をなすものであった。
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雑穀出荷
雑穀集荷と出荷のシステム 1930年前後の釧路港220922―前―

 1998年3月に紙面に投稿、のちに出版したのがすっかり失念していた。
 紙面には「くしろ歴史の風景」、釧路新書では『街角の百年』。そうした枠組みであった。
 発端はと申すと『市制施行十周年記念 写真帖』に掲載されている二点の写真を紹介したことが発端であった。

 二点の写真のうち、その一点を今回、掲載しておきましょう。
 今回、9月22日午前10時 釧路フイッシャーマンズMOOを出発し、説明のポイントは「1)下渡船乗降口」「2)原田御殿」「3)檜森神社―幸町―」にあった。
 「ケシカラン」。そうは申さずに、また、2023年9月にあるきましょう。

 今回はその下準備に「トンケシの新字名」
                   1998年3月2日 『釧路新聞』文化面掲載か
 旧頓化(とんけし)には寿町・南浜町・仲浜町が設定され、頓化と旧西幣舞とにまたがって、浪花町が設定された。寿町は寿尋常高等小学校が既にあったので、児童の健康を祈る意味合いをこめたのだという。南浜町と仲浜町はどちらも、釧路港の整備につれて、それぞれ「釧路港の枢要地帯」と「重要商業地区」への発展を期待して命名されたもの、とする。
 さて、浪花町は次のように紹介されている。
 (浪花町の)中央やや東寄りに地方費道(今日の国道)が貫通している。この路線は火防線となっていて、商業地に適している。今や多数の営業倉庫と撰穀工場(豆選り工場 写真)が並び、農産物の集散地区を形成する。このため、北海道農産物検査所釧路支所があり、汽船と貨車をむすぶ鉄道省による海陸連絡設備が完成すれば、一大発展を遂げ、その繁盛こそ大阪にあやからん事を祈り、浪花町とする、と。
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「迫る食料危機 日本をどう守る~いま問われる食料安全保障~」 新聞&TVで食糧危機220917
 「迫る食料危機 日本をどう守る~いま問われる食料安全保障~」 新聞&TVで食糧危機220917

 ロシアのウクライナ侵攻。収まらない。これまでの歴史に照らせば、攻め入った側の首都が攻撃対象になっても、戦いは終わらなかった。
 侵攻以来、7ケ月。食糧・エネルギー供給が途絶し、肥料&飼料の価格高騰、食糧を確保する各国間の競争で<買負け>も起きている、と。

 新聞では「酪農危機突破大会」に釧路国、根室国の酪農経営者が結集した、と。
 nhkETVでは、「迫る食料危機 日本をどう守る~いま問われる食料安全保障~」と題する食料フォーラムが開かれた。

 「家産家消」は「家庭で栽培、家庭で消費」。
 ウサギ小屋といわれている日本人家屋や集合住宅住まいには<縁遠い>話にも聞こえるが。
 それほどまでにしてい<一極集中>というか、<都市集住>をうながして<快適>を植え付けたのは、<どこの、だれか>。

 「小麦粉よりも米粉で」。
 米の減反政策の導入時に提案してほしかった。問題は「生産者価格差補給金」。
 財政の持ち出しを増やさないためには、美田と申すより

 「(カロリーベース)日本の食糧自給率は37%」。
 本邦の農業経営者が怠慢なのではない。<USA残留食糧のもらい受け>に始まった<戦後復興>。
 「国際競争時代にあわせて、酪農経営の多頭化飼育&大型経営」。その行き着く先に「牛がゲップで発するメタンガスは23倍の濃度」。
 牛乳や牛肉の生産元を、ヤッカイ扱いする、なかれ。

 指摘するまでもなく、「票になる」の政策誘導。
 不足する外交力で抑止できなかった国際政治の「落としこぼし」が生み出した危機。
 <庶民の口>なる生活権にに深刻な影響をもたらす。
 さらに深刻、発展途上国では<今を生きるか死ぬか>の生存権をないがしろにしている。
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這間」は「しゃかん」と読んで・・・・ 高群逸枝『母系制の研究』序説2220920
 「這間」は「しゃかん」と読んで・・・・ 高群逸枝『母系制の研究』序説2220920

田舎に置いてあった高群逸枝著『母系制の研究 上』。講談社文庫を持参して広げ、読み進むうちに。
 「這間」のキーワード。調べてみると「しゃかん」と読んで「この間」の意味。
 「この間」は、「このかんに」の意味なのかも。「このあいだ」の意味には捉えにくいが。

 「女性史は女性の文化の発達を研究」「女性自身の立場による見方をももつもの」とする(12p)。
 そのうえで二つのテーゼを総合する考え方として、「(女性史は)女性の立場による歴史研究の学問」とむすぶ。

 他方で「女性史に対し文化史の設定は」と問い、立ち上げようとする女性史の学問的座標軸を明示しようと論ずる。
 「文化史は綜合的な学問」「女性史は特殊的の方面を有している」と住み分ける。

 「文化史の誕生は、女性史に対して種々の示唆をもたらす」としながらも、「文化史の一部としての女性史ないし女性文化史を考察」とする論には、一線を画している。

 『母系制社会の研究』に注目する背景はなにか。
 西洋の産業革命から時日を経過。男性が<良かれ>と中軸を占めてきた社会に課題が。
 1)格差と分断の拡大と深化、
 2)自然の復元力や自浄作用の臨界値を超える地球規模の負荷。
 3)次世代に臆面することなき債務の拡大と後世代負担。
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少雪寒冷の冬、日照不足に湿潤低温、劣悪を示唆の自然環境 厚岸町上尾幌・尾幌担当区界 釧路営林署210920
 少雪寒冷の冬、日照不足に湿潤低温、劣悪を示唆の自然環境 厚岸町上尾幌・尾幌担当区界 釧路営林署210920

 
少雪寒冷の冬、日照不足に湿潤低温、劣悪を示唆の自然環境 厚岸町上尾幌・尾幌担当区界 釧路営林署210920

 『釧路営林署 開庁60周年』を偶然にみつけて、内容の点検。思い知らされる劣悪を示唆の自然環境。
 水産資源に配慮した「防霧林」「魚つき林」「土砂崩壊防備」の重要な役割を指摘(14p)するも、自然環境の厳しさ、劣悪さは事実。
 他方で寒冷地、日中気温の寒暖差が生み出す「質の差別化」はそれほど明確ではないうようで。経営環境の厳しさをうかがわせる。

三、管轄区域ならびに機構
 (管轄区域)「釧路市、釧路村、鶴居村と厚岸町尾幌、上尾幌地区、標茶町阿歴内塘路地区など十九万六千ヘクタール」
 (国有林面積)「釧路市四ヘクタール、釧路村六千七百五十四ヘクタール、厚岸町四千百六十七ヘクタール、標茶町千四百七十二ヘクタール、鶴居村一万三千八百十二ヘクタール、合計二万六千二百八ヘクタールであり」「釧路団地、雪裡団地にそれぞれ一万三千ヘクタール前後分布している」。
 (機構)「釧路、上尾幌、尾幌、昆布森、幌呂、雪裡第一、雪裡第二の七担当区事務所」
     「上尾幌・雪裡造林、雪裡苗畑、上尾幌製品の各事業所を置いて実行している」(12p)
 
(1)地況
ロ 水系
「釧路団地には尾幌川が厚岸湾に注ぐほか、釧路川支流の別保川があるがいずれも水量は少ない」。
ハ 地質土壌
 「(釧路団地)昆布森は、上尾幌は白亜紀、上尾幌阿歴内の第四紀、尻羽岬の古第三紀よりなるが、いずれも火山灰が覆い、土地母材となっている」。(14p)
ニ 気象
 「南部は海岸性気象であるが、海岸近くでは四~九月まで海霧が発生し、霧日数年百十日におよぶので日照時間が少なく湿潤低温で植物生育を阻害している」。
 「冬期は積雪少なく晴天が多いが風と寒気のため冷涼で土壌は森林内でも凍結する」。
 「そのため寒風害の危険が大きい」
   『釧路営林署 開庁60周年記念誌』(昭和43年 釧路営林署)

 
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教育はなにを目指してきたか  NHKスペシャル“中流危機” を越えて220917
 教育はなにを目指してきたか  NHKスペシャル“中流危機” を越えて220917

 最近「いい、いじゅー」なるNHK番組をチェックしている。
 鳥取、嵯峨、新潟、静岡・・・・・・・。なんとなくわかりかけていることがある。
 「本州で繰り広げられるは、仕事を創る移住」「北海道のそれは、仕事につく移住」。

 静岡でワサビ栽培、新潟・燕で金属加工、佐賀・神埼でプレスラー、福井・小浜で養蜂に挑戦。鳥取でリノベーションで注目される建築会社で大工。
 市」 - いいいじゅー!! - NHK

 北海道で移住といえば、公共の受け入れ策。
 家を用意し、幾分の補助金を用意して雇用をさがす。
 地域政策にも「緊急雇用確保」。「雇用創出」「雇用創造」。どうして経営のみがさらなる努力を強いられるのか。

 この週末、2022/09/20 NHKスペシャル再放送 “中流危機” を越えて「第1回 企業依存を抜け出せるか」が放送されていた。
 番組内容に、つぎのように示される。
 
  上がるはずの給料が上がらない-。
  “中流危機” が加速する日本。
  終身雇用、年功賃金などの雇用慣行が限界を迎え、企業が稼げず、所得が沈む悪循環に。解決への糸口を探る。

 「解決への糸口を探る」と銘打たれると、いささか困るのだ。
 現在の終身雇用制、年功序列賃金、性別役割分業による「一人の働きで家族全部を養える」。
 終身雇用と年功序列賃金は第一次世界大戦前後に確立、性別役割分業の枠組みが完成して60年。
 教育は1960年を境に、職住一体は古い、経営の効率化、大が小を支配の二重構造を生み出し、学歴長期化をすすめてサラリーマンの養成をめざした。

 番組は伝える。
 「技術革新が進む世界の潮流に遅れ、稼げない企業・下がる所得・消費の減少、という悪循環」。
 「サラリーマン社会」で生きるをめざした政策誘導の生み出す書格差。国民にどう対応しろ。なにを主張したものか。
 教育はなにを目指してきたか  NHKスペシャル“中流危機” を越えて220917
 最近「いい、いじゅー」なるNHK番組をチェックしている。
 鳥取、嵯峨、新潟、静岡・・・・・・・。なんとなくわかりかけていることがある。
 「本州で繰り広げられるは、仕事を創る移住」「北海道のそれは、仕事につく移住」。

 静岡でワサビ栽培、新潟・燕で金属加工、佐賀・神埼でプレスラー、福井・小浜で養蜂に挑戦。鳥取でリノベーションで注目される建築会社で大工。
 市」 - いいいじゅー!! - NHK

 北海道で移住といえば、公共の受け入れ策。
 家を用意し、幾分の補助金を用意して雇用をさがす。
 地域政策にも「緊急雇用確保」。「雇用創出」「雇用創造」。どうして経営のみがさらなる努力を強いられるのか。

 この週末、2022/09/20 NHKスペシャル再放送 “中流危機” を越えて「第1回 企業依存を抜け出せるか」が放送されていた。
 番組内容に、つぎのように示される。
 
  上がるはずの給料が上がらない-。
  “中流危機” が加速する日本。
  終身雇用、年功賃金などの雇用慣行が限界を迎え、企業が稼げず、所得が沈む悪循環に。解決への糸口を探る。

 「解決への糸口を探る」と銘打たれると、いささか困るのだ。
 現在の終身雇用制、年功序列賃金、性別役割分業による「一人の働きで家族全部を養える」。
 終身雇用と年功序列賃金は第一次世界大戦前後に確立、性別役割分業の枠組みが完成して60年。
 教育は1960年を境に、職住一体は古い、経営の効率化、大が小を支配の二重構造を生み出し、学歴長期化をすすめてサラリーマンの養成をめざした。

 番組は伝える。
 「技術革新が進む世界の潮流に遅れ、稼げない企業・下がる所得・消費の減少、という悪循環」。
 「サラリーマン社会」で生きるをめざした政策誘導の生み出す書格差。国民にどう対応しろ。なにを主張したものか。
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ハワイの豚 沖縄の食糧事情を救う 220907
ハワイの豚 沖縄の食糧事情を救う 220907
 NHK「ちむどんどん」寛大の「ハワイの豚」伏線回収に朝ドラファン興奮「いい話」「賢秀!早く暢子に豚を卸せ!」

 世に沖縄では、「鳴き声とヒズメ以外は残さずに食べる」とされている「豚」。
 そもそも沖縄では豚の飼育が取り組まれたいた。アメリカ軍の攻撃で、その豚が全滅した後の話。
 復活の話は次のようになっているようで。

 沖縄県公文書館で紹介中。https://www.archives.pref.okinawa.jp/news/that_day/6229
 それとは別にNHK朝ドラマを紹介するページは、以下のように記載。
 「戦後、ハワイの沖縄移民たちが太平洋戦争によって全滅の危機に陥った沖縄の養豚業を助けるため、嵐の恐怖にも負けず船で550頭に豚を贈ったという話を披露」。
 「それは、戦後の沖縄の食糧難を助けたいという一心で敢行された命懸けの航海だったと力説」。

 要をえているのかも。
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「金の卵」の中学生、集団就職 北海道ではどうであったか220916
「金の卵」の中学生、集団就職 北海道ではどうであったか220916

 「集団就職」もしくは「集団就職列車」。
耳に覚えのあるお方は、今やどれほどの年齢層になっていることになるのか。
井沢八郎さん「あゝ上野駅」や島倉千代子「東京だよおっ母さん」などの歌謡曲。その背景にあることを、思い描いておきたい。

その説明には、次のような指摘がある。
「高度経済成長期に地方の中学・高校の卒業生たちが、臨時列車に乗って大都市圏に働きに出た『集団就職』」。
「一般に『東北』から東京に向かう光景として語られてきた『集団就職』のイメージが捉え直される」。
でわ、端緒と終末。
「人手不足 を解消する雇用政 策として 行われた 『集団就職』は、1954 年 (昭和 29 年) 4 月青森駅から出発した集団就. 職列車によるものが初めて」。
「1975年3月24日、盛岡発の集団就職列車が上野駅に到着しました。これが最後の集団就職列車となり、日本の高度経済成長も終わりを迎えること」になるとも。

昭和12年生まれほどの新制中学校卒業者から、1975年3月の高卒者と申すと昭和32年生まれ。そういうことになるのであろうか。
1960年前後にこの集団集団就職列車に乗った、生徒たちはには「金の卵」の称があった。
彼、彼女たちのなかにあった、発言。
「私たちのときは仕事の選択肢がなかったのよ。生きてゆくにはこれしかなかったのよ」と「いった淡々とした語り」。
公的記録は、真に少ないのだそうだ。「集団就職」を扱った著者たちは、当時の体験者に面接し、「九州や復帰前後の沖縄から京阪神・名古屋へ向かった人々を中心に証言」を集めたのだと、申す。

ある意味、内在する制約。そこからアプローチの方法と背景を考えてゆくことにしたい。
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「マグロの釧路か、釧路の鮪か」、その残照 入舟高木家船見櫓210504.
「マグロの釧路か、釧路の鮪か」、その残照 入舟高木家船見櫓210504.

 釧路川左岸の入舟岸壁を歩いていて、気が付いた。
 釧路内燃機製作所の背後に見える塔屋の家構い。写真の建造物は「船見櫓」では、ないか?。
 「(釧路市道)入舟臨港通」で見つけた塔屋を、「(同)入舟6線」の通りに回ってみても、明確にはわからない。

 でも、どうやら「高木商店」の社屋に位置するように読める。
 昭和62年頃に遡る。当時は木造3階ての建造贓物があって、改築することになった。
 その7とき、3階部分は畳6畳間ほどの空間で、釧路川に面した北と西には広く窓が開かれており、河口に寄港するマグロ漁船の漁模様を確認する設備となっていた。

 河口で僚船が振る旗の標識。それが暗号化されたものであったかどうかは不明ながら、その質量を理解して「電信」で相場の確認に奔走。
 そうしたことを聞かされていた。解体のときには写真の撮影に追われ、解体した家屋材は「市設魚揚場」に保存するということであった。
 確かに、改築後に新装なった建物に、どのような装備が施されたものか、確認しないまま職場を離れたままになっていた。

 時は、30年が流れた。
 令和になった20021年5月、釧路川下渡船の「入舟乗降口」を確認するべく、現地に赴いた。
 旧釧路臨港鉄道線跡の桜並木に見とれていたが、目を転じて見上げた地点には、どうやら「船見櫓」。ひそかに「入舟高木家船見櫓」。かく呼称することにしている、のだが。
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「石油禁輸」解除は二段階で 木炭自動車の終末220913
「石油禁輸」解除は二段階で 木炭自動車の終末220913

 1949(昭和24)年
 「GHQの占領政策の転換から石油に関する制約が解かれると、翌50(昭和25)年から輸入が再開」。
 1952(昭和27)年
「燃料油の配給及び価格統制が撤廃され、燃料事情は急激に好転」と。
 https://www.jacar.go.jp/glossary/tochikiko-henten/qa/qa35.html
     アジア歴史資料センター「「公文書に見る戦時と戦後 -統治機構の変転-」

 7月13日の夕方。釧路湿原シニア大学の講座を終えての帰路。
 路線バスの停留所に待ち人が居られて。「そうだ去る日、『木炭自動車の話』をしてくださったヒト」。
 思い出して一声かけさせてもらった。「バス会社に入ってサー、まもなく(木炭で走るバスは)なくなった」。
 「あそこ(幣舞橋のこと)(幣舞橋のこと)を渡るとき、バスが動かなくなってしまってサー」「(自分は)なにもしなかったが、運転手はたいへんだったぁー」と続けてくださった。

 念頭に「木炭自動車、その終末は、いつなのか」。かく過=よぎ った。彼女は「(木炭で走るバスに載っていたのは)そんなに、長い期間ではなかったけどサー」。
 その場では、「あのね、木炭バスに乗って、サー、その歳の正月は迎えたの?」。
 それから「次の年」は、どうだったー、正月を迎えても乗っていたかーい。

 思い出してもらうことを約したところでバスは到着したが・・・・・。
 帰宅して反芻。ネットで調べると、冒頭の記載があった。
 彼女の入社の年にGHQは我が国への「(石油)輸入が再開」されていたのだ。釧路市のバス会社にも「輸入が再開」の恩恵があった、はず。

 「今日もバスは止まらないかしら」。15歳乙女の杞憂は、それほど長くは続かなかったはず。今度は聞いてみよう。
 「あのさー、厳島神社の祭典のころにも木炭自動車は走っていたかーい」
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小説『海霧 UMIGIRI』の舞台 原田御殿界わい220914
小説『海霧 UMIGIRI』の舞台 原田御殿界わい220914. 豆選別場写真&支援システム地図。
写真「十勝雑穀集荷場」 『昭和7年 釧路市制施行十周年写真帳』掲載。

橋本正一家 橋本物産 十勝国大津湊から釧路港に移転 浪花町四丁目2
職業紹介所 現在のハローワーク、女性就労斡旋    浪花町五丁目2
道庁出張所 農産物品質検査所の機能を体したか    浪花町六丁目1
釧路保育園 飯田要次郎の経営、のち釧路信金理事長  浪花町七丁目2  
小池愛三家 豆腐店経営、大豆入手に好適位置か    浪花町七丁目2
高橋駒吉家 豆等級別選別場を経営、写真中央に座す  浪花町七丁目5

明治38年に鉄道が釧路~帯広間開業、ついで池北線が明治40年に開業して十勝、網走の雑穀、木材が釧路港に集荷。
小豆、大手亡、グリーンピースなどの等級別選別を施す作業が港頭で展開される時代を迎えた。
集荷対象の大豆を手にしやすい地点を背景にしたか、歌人で著名だった小池愛三氏は豆腐店を経営の跡も示される。
取り扱い事業者が十勝国大津港から釧路港に移転し、仲介を果たす。他方で選別場の求める従事者斡旋の枠組み。
かつ女性従事者を多数必要としたため幼児の保育措置を担う釧路保育園が記載されている。
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USA 新自由主義 極右 政権、顔の方向=誰の利益を政策に220911
USA 新自由主義 極右 政権、顔の方向=誰の利益を政策に220911

2015年夏か、安保法制の議論がすすむ時点から、「この政権、誰の利益を政策に」と思いめぐらしてきた。
 国会を150日間かの長期にわたり延長をして、参議院の委員会。
 その最後の場面は答弁席に自衛隊出身の防衛大臣、臨時委員長席にこれまた自衛隊出身の議員がマイクを握りしめて強行採決。

 中谷―佐藤のコンビがすすめた光景は、大いに<異常>とも言える<目を疑う姿>。
 前後してすすんだ国家秘密法(スパイ防止法)や秘密保護法(特定秘密の保護に関する法律)の制定。
 それらともあいまって、<この国は自衛隊が政権をまもるため国民を敵視する>に転じたのかと、思いめぐらすようになった。

 政権の向かっている方向。
 アメリカ合衆国・・・・古くはイギリス、ドイツ、戦後は突然、USA一辺倒に。
 新自由主義・・・・・・学歴は4大卒、年収で5000万円超の階層が支持。
 極右・・・・・・・・・この<顔つき>がなかなか、見えなかった。小佐野賢治氏や児玉誉士夫氏亡きいま、森友学園などその存在は小さいと受け止め、さてどこに。

 そこに一発の弾痕dせ、<開蓋>の思い。
 往時電信柱にも貼り紙のあった「国際勝連合」。多数の「合同結婚式」の異様が白日にさらされるとは。

 10日朝、テレビで視聴。
 「サンモニ」識者 島田紳助さん例に『民間なら引退』」。見出しの詳報は、下記。
 <改めて旧統一教会の問題点を指摘>。
 <1つは霊感商法などの「反社会性」>。<もう1つは「反日性」とし「日本の弱者に食いついて『朝鮮半島を支配していた贖罪(しょくざい)でもって日本は金を出すべきだ』っていう形で入り込んできた」と説明>、と。
 https://news.yahoo.co.jp/articles/1160290ecdd95ead339eb6d5de4d09a982832ee8

 世の動き。
 注意深く、読み解いてゆくことにしよう。とにもかくにも情報を集め、自身で思慮。とにもかくにも、全員が投票所に足をはこぼう。
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共楽座 大正初期の芝居小屋 一葉の写真から220910。
共楽座 大正初期の芝居小屋 一葉の写真から220910。記載してみましたですよ。

共楽座  きょうらくざ
米町13番地、現在の釧路市米町公園駐車場に開設した演劇場。開設の時期は大正2年8月とみられ、昭和3年の新聞記事では「跡地」とあって他の地に移転していた。た。
ルネサンス様式といわれる美しい劇場は、ひときわ釧路町民の目をひきつけたに違いない。おしゃれな建物に背いて「芝居小屋」の名で呼ばれる。映画を上映する「活動写真館」とは明らかに区別されていた。
 「釧路第一劇場共楽座」と紹介する画像も残る。この劇場は「政友会」という政党の有志が建設運動を立ち上げて建設されており、「政談演説会」が開かれて支持者は熱弁を聞いた。
 「日本演劇のハナ」とうたわれた松井須磨子や川上音二郎らが釧路町に来ているが、政党間のライバル意識をうつし釧路駅に近い末広座という劇場と競いあった。その末広座が大正7年に焼失した跡地に共楽座は移る。そこで「恵比寿座」の名で開業した。
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エリザベス
エリザベス女王死去 世界から追悼の声相次ぐ 2022年9月10日 21時34分

70年にわたって在位 96歳 安らかに

トラス首相(英国)
「女王は現代の英国を築く礎となり、女王の治世下で国が成長、繁栄した」
バイデン大統領(米)
「一人の君主以上の存在で、一つの時代を定義づけた」
「女王は何世代もの英国人にとって安らぎと誇りの源だった」
トルドー首相(加)
「女王陛下の知恵、思いやり、温かさを私たちはいつまでも忘れず、大切にしていく」 「カナダとその人への奉仕は、わが国の歴史の重要な一部として永遠に残る」
モディ首相(印)
「彼女の温かさと親切さを忘れることはない」
「国家と国民を奮い立たせるリーダーシップを発揮した。公人としての威厳や良識を体現した」
マクロン大統領(仏)
「女王は70年以上にわたり、英国の継続と団結を体現してきた」
ショルツ首相(独)
「何百万人もの人々の模範となり、インスピレーションを与えてくれる存在」
「第二次大戦の惨禍の後、独英の和解に尽力した彼女の功績は忘れられない」
「特に彼女の素晴らしいユーモアを恋しく思います」

最後に「月刊ゲンダイ」のネット記事
2022年9月10日 14:03配信「エリザベス英女王の国葬が「弔問外交」の場に…先行される岸田首相もくろみ外れ大誤算」
https://news.yahoo.co.jp/articles/bb67c8dcf9f9cb44e5beb634a5bae2f680b622c5
(記事内容)
「岸田首相がもくろむ「弔問外交」のお株を奪われそうな展開だ」。
「英国のエリザベス女王(享年96)が8日(現地時間)に逝去。世界中から弔意が寄せられている」。(英メディアによると、女王の国葬は2週間以内に営まれる見通し)
「英君主として最長の70年にわたる在位期間を誇る女王の国葬には、各国首脳や王室関係者の参列が見込まれる」。
「」岸田首相が起死回生を狙う安倍元首相の国葬(27日実施)が、ますますかすんでしまいかねない。
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原田御殿 浪花町五丁目界わい
https://activo.jp/users/8774
団体名 特定非営利活動法人 浪花町十六番倉庫

法人格 NPO法人
HPのURL http://ww6.et.tiki.ne.jp/~n16bansouko
代表者 理事長 久島 貞一
設立年 2000年
住所 〒085-0021 北海道釧路市浪花町5丁目5番地
電話番号 0154-24-1616

北の風に吹かれて~独り漫遊記~ 釧路にもあった煉瓦倉庫
https://blog.goo.ne.jp/five-colors1213/e/32e0247ea2277917b40dc8fa539937d3 
             北の風に吹かれて~独り漫遊記~ 釧路にもあった煉瓦倉庫
そんな倉庫群の一つであり、代表格とも言える「浪花町十六番倉庫」と呼ばれるこの倉庫は、釧路市出身の作家で、代表作「挽歌」で知られる原田康子さんの曾祖父が、明治43年(1910年)に、豆類の保管倉庫として建設したものです。
その後、様々な用途に用いられ、平成11年(1999年)、「倉庫を創造空間として再生し、釧路の遺産として守りたい」と願う市民有志により、「NPO法人浪花町十六番倉庫」が発足し、翌12年(2000年)に多目的コミュニティスペースとして運営が開始され、ライブや演劇、展覧会など、様々なイベントが開催されています。
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「<原田御殿>その界わい」 近く案内される「ぶぶる釧路の街歩き2nd」
 「<原田御殿>その界わい ぶぶる釧路の街歩き2nd」。近く案内されるようですが、7月に続く2度目の催事。

 「どうしましょう、か?」。そう聞かれ、最初は「女流作家育んだ、原田家の舞台」。そうしたタイトルで考えました。
 しかし、「面白みに欠けるのでは?」。
 そう考えて、さらに一ひねり。2007年頃「観光講座」で「佐賀衆と原田文学」の題材で話をしたこと思い出しました。

 新たに浮かんだ構想が「<原田御殿>その界わい」。
 小説『海霧 UMIGIRI』の頂点に位置する家業の繁栄を支えた構成要素をたどってみます。
 ポイントは十勝及び北見・網走の雑穀が、鉄道輸送を通じ釧路港に集荷されるシステムそのものにあるのですが。

 しかし、「集めた素材」をただ、通過させる枠組みではなかったのです。
 そこに注目しておきたいとおもいますね、今回のツアーでは。
 「選穀 せんこく」という枠組み。集荷した雑穀を、選別し等級の付加価値を加えて「外貨」を稼ぐ。

 そうした営為が展開された領域があるのです。
 「石炭が育て、鉄道が支えた北海道東部都市の中心街」。そこの<吸引力>を高めたい。
 各人が「出来ることを通じて、多くのプログラムを提案したい」。「やってみたい!!」。その有志の期待に応えて、催事が計画されています。

  「<原田御殿>その界わい」 近く案内される「ぶぶる釧路の街歩き2nd」。主催者の公表に先立ち、その事前紹介です。
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公園設計 本多博士講演 第六植物園 8月23日 二面
 公園設計 本多博士講演 第六植物園 8月23日 二面
 第六には天然植物園附け外国樹木園である。

 公園内の樹木は年々盗伐其の他で伐られたそうであるが、其れでも一寸見た丈で喬木から灌木までものを数ふると三十餘種あるから之を基礎として
 ▲天然植物園
を作る・・・・・・位置は忠魂碑、運動場等の後方・・・・・・天然植物園とは北海道全体にある樹木を出来得る丈け此處に蒐集して以て天然は植物園を作るのである。是れ差したるも困難な事でもないない。

 而して之らの樹木に対しては、札を附けて片仮名と羅典語とを以て其の名を書いて置くる。札は巾三寸に長さ四寸五分のトタン板にて作くり、白く塗った上に黒く書く。之が一番見るに便利で永く保存されるやうである。又た札の附け方は大な木には四五尺位の高さに釘を以て打付け、打ち付けるに餘りに
 ▲可哀想な細
い木には枝などに掛け、更らに掛けることもできない灌木類に対しては別に札を掛けるが良い。

 喬木・・・丈(たけ)の高い木。植物学では、幹が木質化して堅く、直立して、少なくとも高さ三メートル以上の木をいう。
 灌木・・・丈が低く、幹が発達しない木本植物。ツツジ、ナンテンなどの類で、幹と枝とが区別しにくく、二~三メートル以内のもの。現在では低木という。
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日程早め本多博士 来釧  19160809『釧路新聞』
本多静六博士は大正5年8月9日に来仙した。翌日から精力的な調査を始めたことが報じられている。

 調査成果は8月16日の『釧路新聞』から報じられている。「公園設計」と題して。
 (-)「都市と公園」「公園の要素」「様式の変遷」
 (二)「英国式採用」
 (三)「第一 幹線道路」
 (四)「第二 歩道」
 (五)「第三 遊覧船」
 (六)「第四 運動場」
 (七)「第五 忠魂碑」
 (八)「第六 植物園」
 (九)「第七 動物園」
 (十)「第八 養魚池」「第九 花き園」「第十 競馬場」
 (十一)「第十一 土族博物館」「第十二 家畜園」「第十三 果樹園」「第十四 雑項」
 (十二)「第十四 雑項」

日程早め本多博士 来釧  19160809『釧路新聞』
『釧路新聞』大正5年8月16日から、博士の講演記録は12回にわけ連載された。
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楽しめる、10.49キロ=40分バスの旅 35番遠矢線220903。
楽しめる、10.49キロ=40分バスの旅 35番遠矢線220903。
所要があって釧路町河畔団地7丁目52番1の会場へ。移動手段は「路線バス」と決めていた。

 時刻表をネットで調べると2時間に一本のバスダイヤ。土曜日、日曜日のダイヤで始発の便に乗ると、少し早めながら「行ける」。
 釧路駅から商用時間は、なんと42分。「どうしてだろう」。
 とのかく乗車。乗る前に会社さんの総合案内で二点の確認があったけれども。

 路線は国道44号線を走り、最初は「睦団地」。大型量販店経由で高等学校もあるし、医療施設も通過する。
 「場外馬券場」のところで国道391号。次には河畔団地5丁目、9丁目と巡回し、つぎは真宗大谷派寺院前を通って柏団地の外周をほぼ一周。
 住宅街のみならず、遠く釧路湿原をわずかに望めるあたりでは、北方文学作家の直木賞受賞作品の舞台を彷彿とさせてもらえる。その関連施設は今や、廃墟寸前ながら。

 高齢者ホーム入り口も通過するし、墓園入口でも底流所はある。高齢者ホームには父の従兄が入所、夫婦で一度訪ねたことがある。墓園には義兄がおさまる。
柏団地一周後、再び国道391号にもどり、目的地の 「公民館前」。「開局100年」の横断幕を掲げた郵便局には筆禍お隣のご主人が、局長さんを務めておられた。
 お連れ合いがお元気と受け止める。

 公民館駐車場では多くの車両整備員が。「ハイ、今日は『吉良平次郎殉職100周年記念式典』を開いています」。
 副知事が、北海道アイヌ協会長が、国会議員が。
おあつまりらしい。

 公民館で1階は「神八三郎資料特別展」、2階は図書室。そうだ、ここ、楽しめる。トイレも清潔。歩こう。暇な折り。料金490円、「おデパス使うと・・・・・」。
 道のり10.49キロ、車でなら20分もあればの道のり。40有余分を要する時間にもご理解を。
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裸一貫、身ひとつで移住先の経済 「前貸商人 まえがししょうにん」待ち受けた220902
裸一貫、身ひとつで移住先の経済 「前貸商人 まえがししょうにん」待ち受けた220902

漁業は農村の前浜で行われ、農業経営の合間にたんぱく源の採取であった。
水田稲作及び畑作で特殊林農林産物の余剰から開発投資を行うため原始的蓄積があった。
北海道には裸一貫で移住、家を建てるところから開拓が始まる。
土地開墾、種まき、手入れ、収穫、換金。その間の、生活・正業を丸抱えすることも必要であった。
漁場や山林を経営する商人は、資金力にモノ言わせて支度金、生活資金&生業資金を事前に貸し付ける。

収穫後、それぞれの出来高は「買い手市場」で決まる。
その売上額から、貸し付けた元金+相当の利息が加算され、その差額を稼ぎ人は手にする。
翌年、再生産の種モミがなければ、それの金額を前借することから始まる。

「詐欺 さぎ」
→「いつわり、あざむくこと」
→「他人をダマして錯誤におとしいれ、財物などをダマしとったり、瑕疵ある意思表示をさせること」

「瞞着 まんちゃく」
→「あざむくこと、ごまかすこと、人の目をくらますこと」(『広辞苑』 第七版)

零細農林漁民はともかく、蝦夷地及び近代の北海道において、アイヌ民族が不可避であった社会システム。
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標高110メートル等高線が折り返す 「さくらの滝」に三つのストーリー―後―220822
 標高110メートル等高線が折り返す 「さくらの滝」に三つのストーリー―後―220822
 
 サクラマスの遡上で人気を博している「さくらの滝」。
 その形成要因はと申すと、「高度110メートルの等高線が折り返し」ている。
 写真を掲載しておこう。西に読める茶色の濃いラインが150メートルの等高線。

 西側が高く、東側へなだらかに傾斜している様子が10メートルごとの平行なそれで読み取れる。
 ところが斜里川の南から北に延びてきている等高線が、<清流をまたぐ>形で折り返して居る。

 斜里川は地形図で南=下方に位置する斜里岳の中腹から北に向かって流れだす。
 青紺の矢印が高度130メートルの線で、+印が120メートル、そして「赤→」が滝の位置。
 10メートルごとに低くなるわけだから「滝は丘陵の縁辺」に存することになるではないか。

 その縁辺部に「固い岩場」。
 ゆえに「高さは3メートルの滝」が生まれ、野望に満ちたオス、より強い遺伝子を残したいメスが、この岩場を超える。
 そうではないのかも。往時、この岩場を乗り越えたところで産卵して受精した子孫が、この滝を超えてゆくことができるのかも、知れない。

 超えられなかった個体同士。
 それは滝の近間=ちかまで、あるいは、さらに遠いところで産卵するのだそうで。
 「さくらの滝」。、その物語の第三は、「滝の形成要因は丘陵の縁辺部の河床がに固い岩石」。
 そこの部分に「断層 だんそう」のがある地形とは、思えぬのだが。

 だから、地形図を読んでみるとおもしろい。
 滝の所在地。それは「斜里郡清里町町字川向」。そういことで。
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