2022年03月の記事


「戦国の威風をただよわせて松江の町を守っています」 松江城天守閣保存211129
「戦国の威風をただよわせて松江の町を守っています」 松江城天守閣保存211129

松江城は平成27年7月、国宝に指定された。「松江城天守 一棟」。
「水の都」と市民が誇る出雲国政庁のある地に、また一つ新しい付加価値が名実ともに創成された。

国宝指定の官報告示をうけて、市長は談話を発表している。
ーhttp://www1.city.matsue.shimane.jp/bunka/bunkazai/matsuejyou/kokuhou.html 市長コメントー松江城天守の国宝指定についてー
「松江城の価値を更に高めて発信」
「松江城だけにとどまらず、城下町としての歴史的な資産と景観を最大限に活かし、特色と活力に溢れたまちづくりを進め」
「こうした取り組みを市民の皆様との共創として、ともに手を携えて推し進めることとし、国宝松江城に相応しいまちづくりを進めたい」

「取り組みを市民の皆様との共創として」の背景には、松江城が保存されるまでに至る経過があるのであろう。
松江城大手門前掲示板の記載を以下に示す。

松江城保存につくした人々
 明治4年(1871)松江城の廃城が決まり、明治8年(1875)に利用できる釘や鎹(かすがい)など金物が目的の入札が決まりました。木材は燃やし、石材は壊されるしかありませんでした。松江城の姿は失われる寸前でした。
 この危機を救ったのが、元松江藩士高城権八(たかぎ・ごんぱち)と出雲郡出頭村(しゅっとうぐんしゅっとうむら 現斐川町坂田)の豪農服部本右衛門(はっとり・もとえもん)家の人たちでした。
 高城は銅山方役人、勝部家は当時、銅山経営をおこなっていましたので、本右衛門栄忠と息子の景浜は高城と公私にわたる親しい間柄でした。その時、松江城を管理していたのは陸軍広島鎮台でした。入札で松江に来ていた責任者の斎藤大尉と会い、入札と同金額を納めるから、せめて、天守閣だけでも残してほしいと懇願しました。天守閣の入札額は180円だったと伝えています。
 こうして。高城権八と勝部本右衛門の努力で松江城天守閣は残り、全国に現存する十二天守の一つとして、今も、戦国の威風をただよわせて松江の町を守っています。(「松江城保存につくした人たち」松江城大手門前掲示板211129)

以上の文は、以下のブログでも公開されている。
https://blog.goo.ne.jp/shizuyashizu/e/5d1acbe17bb9b7930cde182d406c4b26 「日々史跡めぐり~日本のあちこちの史跡、神社仏閣を巡っています」
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縁起 真宗本願寺派尾幌説教所220327.
縁起 真宗本願寺派尾幌説教所220327.

 明治三十二年年四月新開地厚岸町尾幌原野に始めて北陸地方出身者の入植あり。
同年九月一日、西一線四十八番地に説教所開設。
 昭和八年三月失火全焼。同年十一月現在地八号線二十七番地に、寺基移転して復興。
 昭和二十五年五月暁善寺々号公称。平成元年開基九十年を迎える。

 明治十年十月五日 新潟県西蒲原郡漆山村寺潟新田 
 佐藤孫九郎三男として出生 幼名善吉
 明治二十五年同県中之口村打越仏照寺(真宗仏光寺派)に入寺後、得度して暁善と改名。
 明治三十二年新潟より、小樽市 法雷寺(住職 龍山雷雲師)を訪ね、新開地北海道にて、お念仏の法義弘通の望みを吐露。
 厚岸町教雲寺(住職 龍山祐教師) を紹介され(両住職は御兄弟)同年四月同寺に寄恵まれた恵まれた(「教雲寺記録」所載)。
 厚岸町宮城野組支配人、奥谷 栄吉氏(教雲寺門徒)の斡旋により、入植前の原野林売払造材事業も終わり、残置の造材事務所等を無償提供のおすすめを受ける。
 京都本願寺より説教所認可申請に基づき、開教御本尊並びに浄土三部経典・正信偈・三帖和讃や御加え御文章の御下付を得て、開教の緒についた。
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縁起 真宗本願寺派尾幌説教所220327.
縁起 真宗本願寺派尾幌説教所220327.

明治三十二年年四月新開地厚岸町尾幌原野に始めて北陸地方出身者の入植あり。
同年九月一日、西一線四十八番地に説教所開設。
昭和八年三月失火全焼。同年十一月現在地八号線二十七番地に、寺基移転して復興。
昭和二十五年五月暁善寺々号公称。平成元年開基九十年を迎える。

明治十年十月五日 新潟県西蒲原郡漆山村寺潟新田 佐藤孫九郎三男として出生 幼名善吉
明治二十五年同県中之口村打越仏照寺(真宗仏光寺派)に入寺後、得度して暁善と改名。
明治三十二年新潟より、小樽市 法雷寺(住職 龍山雷雲師)を訪ね、新開地北海道にて、お念仏の法義弘通の望みを吐露。
厚岸町教雲寺(住職 龍山祐教師) を紹介され(両住職は御兄弟)同年四月同寺に寄恵まれた恵まれた(「教雲寺記録」所載)。
厚岸町宮城野組支配人、奥谷 栄吉氏(教雲寺門徒)の斡旋により、入植前の原野林売払造材事業も終わり、残置の造材事務所等を無償提供のおすすめを受ける。
京都本願寺より説教所認可申請に基づき、開教御本尊並びに浄土三部経典・正信偈・三帖和讃や御加え御文章の御下付を得て、開教の緒についた。
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「北海道三大秘湖」 東雲湖・十勝国220325
「北海道三大秘湖」 東雲湖・十勝国220325..

東雲湖(しののめこ 大雪山国立公園)は周囲0.8キロ、標高800メートルの地点に位置する小さな湖。
「オコタンペ湖(支笏洞爺幸区立公園)」「オンネトー(阿寒国立公園)」とともに「北海道三大秘湖」と数えられている。
NHK番組「こころ旅」で俳優の火野正平さんが訪問。あと数年~10年ほどで、「消滅する湖」と。地図で読むと「東雲湖(東小沼)」と記載がある。

紹介にある。
「展望地があって、近くのガレ場にはエゾナキウサギの生息地となっている」。
「周辺にガンコウラン、コケモモ、マイヅルソウ、ミヤマハンショウヅルなどの高山植物が生育」。
「東雲湖は然別火山群の爆裂火口と推測」は湖沼成立の要因、つまり成因のせつめいということに。

大雪山国立公園。その特別保護区となっている、と。
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越前・越中・加賀国に白山比咩(しらやまひめ)信仰 白山信仰220326
 越前・越中・加賀国に白山比咩(しらやまひめ)信仰 白山信仰220326

 史跡国泰寺跡にも記載のある白山信仰。
臨済宗寺院になぜ?。そうした思いをあたためてきた・・・・・が。
 流布中の解説には、道元禅師にまつわる次の伝承をまず、記録する。
 「日本曹洞宗の道元禅師(高祖承陽大師)が宋から帰国する前夜に、白山権現が碧巌録の写本を助けたとの伝承がある」。
 「このことから曹洞宗大本山永平寺は、白山権現を永平寺の守護神・鎮守神としており」、
 「毎年夏には永平寺の僧侶が白山に参詣して奥宮の前で般若心経を読誦する」。

 本来の解説にもどって、「白山信仰とは」。
 「越前、加賀、美濃三国にまたがってそびえ立つ白山を対象とする信仰」。
 「『越のしらやま』として詩歌に詠われた白山は、富士、立山とならび『 日本三名山』」のひとつに数えられる秀麗な峰」。
 「白山に源を発する九頭竜川、手取川、長良川流域の人々の間から、また相前後して日本海で白山を航路案内とする漁民の間から自然に発生したもの」
と、考えられている。

 江戸後期のアッケシ。
 松前に拠点をもつ商人の漁業経営、大河の恩恵にささえられた漁業資源を、遠隔地間交易の買い積み船が加賀国橋立から通船する地。
 しかも、東北からの出稼ぎ者に多い、曹洞禅の開祖に対する敬意をこめて、蝦夷地寺院僧侶は廻勤したか。
 「臨済宗寺院にあるまじき信仰の重層性」。そうは申さずに、蝦夷地寺院の取り巻きに及ぼす寛容性と受け止めておく。
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神農祭
「薬だけではダメです、やはり神様に」 道修町の神農祭220326.

史跡国泰寺跡の記録にも登場「神農祭」。大阪・薬問屋街で生まれたようで。
辞書に記載の「神農祭」。「少彦名(すくなひこな)神社の祭(11月22〜23日)」。
「日本の医薬の神少彦名命と,中国の薬祖神神農をまつり,俗に〈神農さん〉という」
「1822年にコレラが流行したときから盛大に行われたといわれ,疫病よけの張子の虎を神社でわける」とも。

五葉笹。その枝に「少彦名神社神璽」の札に、の張り子の「虎の子」。
「漢方医が冬至の日に、医薬の祖である神農氏を祭る行事」であるとも。
なぜ、虎の子?。「200年前、上方で大流行した「コレラ」が大きくかかわり」。
「虎と狼が一緒になって襲ってくる」として、「虎狼痢(コロリ)」と綴られた」とある。

中国で「医療と農業を教えた古代中国の皇帝で、日本でも薬祖」として祭られたのだと、伝わる。
https://japan-toy-museum.org/archives/monthly/%E3%80%8C%E7%A5%9E%E8%BE%B2%E3%81%95%E3%82%93%E3%81%AE%E8%99%8E%E3%80%8D
https://kotobank.jp/word/%E7%A5%9E%E8%BE%B2%E7%A5%AD-538711。(「大阪玩具協会『神農さんの虎」」&「コトバク」)。

 江戸時代から続く老舗・薬問屋を継いだ三姉妹の一人が、神農祭で懸命に祈る。「薬だけでは、ダメですから」。
 NHKBS3「新日本風土記 大阪・船場」220326。
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先住民族権
 先住民族権&領土返還交渉 二つの関係220304.

 ロシアのクリミヤ共和国侵攻で浮上した日本周辺の潜在課題。北海道は二つのネット記事に遭遇している。
 すでに2018年。プーチン大統領は「アイヌ民族をロシアの先住民族に認定する」という考えを示した(2018年12月、モスクワでの人権評議会)。
 2022年2月26日というから、クリミヤ侵攻の翌々日、『夕刊フジ』が伝えていた。

 「北方領土」。
 戦後、ソ連のクナシリ、エトロフ、色丹、歯舞諸島それぞれの居住者一斉退去を契機に、「北方領土」の語は生まれたと思う。
 1945年2月のヤルタ協定で米英とソ連の間で「(ソ連に)千島列島がソ連に引き渡される、樺太南部をソ連に返還」が決定。
 ソ連は日本がポツダム宣言受諾、戦争終結を宣言したあとの「8月28日から9月5日までの間に北方四島を占領」と経過した。

 米英はなぜ「北千島と中部千島、南千島の間に線引きしなかったか」。ある意味、東西冷戦のケジメ、日本の戦争終結にむけての妥協であったものか。
 2012年から、「私の手で隣国同盟の改善」。それを旗印とする政権が主唱した。歴史的には対アメリカとの戦争を認めた大臣の孫を自認していた。
 「なぜに(安倍さんは)母方の祖父のいいぶんをばかり、父方の祖父は大政翼賛会に与しないで処罰されたヒトなのに」(元総理夫人談)。

 今、根室のヒトは困っている。クリミヤ侵攻の制裁で、ロシアからの水産物輸入途絶を見越して水産加工業の店じまいを言いだし始めたヒトが函館に居る。
 安倍氏退陣。そのときから言われていた。
《27回も会談して、地元に招いて馳走を振る舞い、3000億円も貢いだのに、いざって時、これ》。
クリミヤ侵攻前から発言していた、「プーチン氏は以前、『アイヌ民族をロシアの先住民族に認定する』という考えを示した(2018年12月、モスクワでの人権評議会)」。

 根室といわず、北海道東部は戦後。「ソ連 北海道占拠  戦後」のキーワードで、次の情報にたどりつく。
「ソ連の最高指導者だったヨシフ・スターリン(1878~1953)が最初に目指した「第二次世界大戦の結果」は」、
 「北方4島ではなく、北海道の北半分だった」。
「南樺太と千島列島でソ連軍と対峙たいじした第5方面軍司令官、樋口季一郎(1888~1970)中将の決断がなければ、スターリンの北海道占領の野望は実現していた可能性が高い」(『読売新聞オンライン』 「『スターリンの野望』北海道占領を阻止した男」 https://www.yomiuri.co.jp/fukayomi/20190125-OYT8T50003/)。
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交易・交流と緊張の神庫(しんこ・じんこ かみのくら) ルーブルとの交換、誰がやる220323
交易・交流と緊張の神庫(しんこ・じんこ かみのくら) ルーブルとの交換、誰がやる220323

交易・交流の時代
寛文元年 1661年 伊勢国松坂の舟、択捉島に至る『勢州船北海漂着記』
正徳2年 1712年 大隅国の舟、択捉島に漂着して『恵渡路部漂着記』
明和8年 1771年 択捉島のアイヌ民族と羅処和島のアイヌ民族が団結し、得撫島と磨勘留島でロシア人数十人を殺害する。
天明6年 1886年 幕府調査で得撫島上陸、ロシア人同士のトラブルで取り残された1名の在留ロシア人がいた。
寛政4年 1793年 ラックスマン、漂流民をともなって根室に来たる。

南部佐井の
寛政10年 1798年 近藤重蔵がアイヌのエカシの了承のもと「大日本恵土呂府」の木柱を立てた。(同島を影響下におく意図をもつロシアに対抗するため)
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「(♀)ネガティブなことばかり言ってサー」 長男・次男を尻目に、妹は宣言=伝統漁法の漁村で210319
「(♀)ネガティブなことばかり言ってサー」 長男・次男を尻目に、妹は宣言=伝統漁法の漁村で210319

早朝のNHK番組。「ちょっと見の」視聴番組でその一コマ。本州漁村の一隅。
番組は難解な漁法の操業場面を紹介して、兄と弟が懸命に取り組む。丘にあがって、マイクを向けられ。
「(次男)このような漁業を続けていて、我々はこの先も食っていけるのかなー」
「(長男)いくら頑張ってみても、親父の腕前を超えられそうもないわ」。

そうした男達の嘆息を尻目に、妹にあたるのか女性がポツリ。
「(♀)ネガティブなことばかり言ってサー」。その表情は笑顔にあふれていた。
番組をみながら、この3人は、現代社会のどのような側面を示唆しているのだろうか、と。

3月21日、同局の「ファミリーヒストリー」。野村萬斎家が紹介された。現世の萬斎は。
「(自身の中学校時代を顧みて)あれこれ思い悩むいろんなことを試みた時代」。その後で。
「いろんなモノをネガティブにとらえて、どんな生き方をするかと」。そう語る場面が。

漁村で取材をうけた3人。
「(♀)ネガティブなことばかり言ってサー」には「ヒトの世の生活、存在する意味を問いつづけて生きたい」。
そういうことではないだろうか。

「伝統漁法 NHK ネガティブことばかり」のキーワードで検索した一覧に、「飯豊町は町制施行50周年」広報誌のトップ画面が登場。
紹介に「飯豊町(いいでまち)とは、山形県の南部にある人口約7千人の町」。「『日本で最も美しい村連合』加盟地域のひとつ」とあった。
(掲載の)写真の右隅に注目。「競う相手は内なる自分」。ウン、オモシロイ。そうではないだろうか。
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後継者育成へのさまざまな形を高く評価 釧根郷土芸能振興基金第30年時助成金贈呈-2-
 後継者育成へのさまざまな形を高く評価 釧根郷土芸能振興基金第30年時助成金贈呈-2-

 釧根郷土芸能振興基金(石田博司理事長)は2022年3月19日午後、釧路センチュリーbホテルで、「活動助成金贈呈式」を行った。

(保存伝承活動助成団体)
風蓮湖太鼓保存会(昭和59年6月創立)
 地域の祭祀や文化祭の演奏に加え福祉・教育機関での指導に取り組む。保育園では発表に向けての演奏指導、小学校で総合的学習の発表会指導、中学校では選択授業で指導を展開。後継者育成が地域ぐるみとするより、さらに一歩進めて継承システムが公的に確立。

ねむろ太鼓保存会(昭和48年3月創立)
 地域の伝統芸能である祭囃子から発展して、新しい太鼓芸能が発祥。「北方領土返還」をテーマに本土最東端の納沙布岬で「元旦初詣」などの催事を実施。全国的にも「日本最東端」を発信する活動への注目を集めて創立50周年を迎える・

(発表会参加助成団体)
北海道くしろ蝦夷太鼓保存会'(昭和42年4月)
 和太鼓を素材にした北海道では先駆的な芸能太鼓団体。「北海道の大自然のなかに生きる人々の生産と生活、そして祈り」が、演奏のテーマ。釧路市文化賞、北海道文化賞、国の地域文化功労者として文部科学大臣表彰をうける。国内外で演奏実績をもち芸能太鼓の世界で研修や団体運営面で指導的役割を担う。

 風蓮湖太鼓保存会のように、園児・小学校・中学校と形はちがっても発達段階に応じて、演奏育成体制のシッカリしている点は、地域の力量として高く評価される。本州の伝統芸能医術の育成で、階梯年齢段階で指導内容が高度化していくことにならい、後継者育成で確固した体制に結実させ、それが地域の基盤産業の後継者育成にも寄与させる点に期待しておきたい。
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後継者育成へのさまざまな形を高く評価 釧根郷土芸能振興基金第30年時助成金贈呈220319ー1ー
後継者育成へのさまざまな形を高く評価 釧根郷土芸能振興基金第30年時助成金贈呈220319ー1ー

 釧根郷土芸能振興基金(石田博司理事長)は2022年3月19日午後、釧路センチュリーホテルで、「活動助成金贈呈式」を行った。
 授与されたのは「保存伝承活動助成団体」が4団体。「発表会参加助成団体」は1団体が対象。石田理事長は「今年春、各国大使館が天皇誕生日に行う『日本国紹介』のなかで『釧路の北海道くしろ蝦夷太鼓保存会』の活動を取り上げた国があった」と紹介した。

(保存伝承活動助成団体)
珸瑶瑁獅子神楽保存会(昭和42年1月創立)
 富山県人の移住者に伝わる獅子舞神楽を地域の青年団が習いつないできた。後継者へ引き継ぐため保存会を結成し、根室市無形文化財の指定、北海道の文化財功労者表彰や根室市文化賞を受賞。
(別海町)本別酪農太鼓保存会(昭和53年4月創立)
 別海町本別地区の入植50周年を機に結成。「開拓の苦労した先人たちの思い」「広々とした牧草地の風景」「地域産業・酪農の益々の発展の願い」を演奏で表現、現在は創立当時のメンバーの二世、三世が担う。

 贈呈をうけた5団体のうち、「保存伝承活動助成団体」の二つをまず、紹介する。
 珸瑶瑁獅子神楽保存会は富山県移住者が母体になった獅子舞伝承、本別酪農太鼓保存会には後継者離村がつづくなか二世、三世が担う力強さが注目を集める。

 釧根郷土芸能振興基金は平成4年の創立。今年は開創30周年にあたり、贈呈式も第30年年次目となる。
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自身のために歩く おもてなし隊ボランティアを支える金光稲荷神社境内宮181228。
自身のために歩く おもてなし隊ボランティアを支える金光稲荷神社境内宮181228。

広島東照宮と広島平和記念塔をむすぶ道は、広島市東区の二葉山に設定されている。
 二葉山の麓にある広島東照宮か広島広島平和記念塔までは標高差が150メートルほどある。
 その傾斜面に、金光稲荷神社とその奥宮と東に位置する神水井まで実に8社の「境内宮 けいだいくう」が並ぶ。

その社祠の位置を掲載図で示してみた。
 古い話ながら2018年師走の28日、旅先の広島市東区で「二葉の里歴史の散歩道」のガイドツアーに参加。
 定刻の10時を前に、参加者が誰もいないコースがあって、担当のボランティアガイドの方に聴いてみた。
 「出発までに参加者がゼロなら、今日の案内は実施しますか」。
 戻ってきた返答はある意味、意外であった。「自分、独りで歩きます」。そうか、そこは北海道とは違う!!。

 広島東照宮、それまでに3度、訪問していた。
 ツアーは、「二葉の里歴史の散歩道~見晴らし満喫コース~」。新幹線口→東照宮→金光稲荷神社と続く。
 金光稲荷神社から平和記念塔までには、次の別宮があって、階段を昇りながらたどってゆく。
 08)金光稲荷神社奥宮(きんこういなりじんじゃおくみや)
 07)金光稲荷神社御神井(きんこういなりじんじゃごしんせい)
 06)玉秀稲荷社(ぎょくしゅういなりしゃ)
 05)三狐呂稲荷神社(さんころいなりじんじゃ)
 04)出世稲荷社(しゅっせいなりしゃ)
 03)神與舎(しんよしゃ)
 02)御産稲荷社(おさんいなりしゃ)
 01)金光稲荷神社(きんこういなりじんじゃ) 元禄の頃から二葉山山頂に祀られていた東照宮の境内社。
 0)広島東照宮

 参加者は、思い思いに境内宮にも詣で、それぞれに心ばかりの賽銭(さいぜん)を箱に投ずる。
 それは案内人も同じなのだ。標高差150メートルを歩くのは、さすがに気後れするや。事前の参加者は少なかった。
 まだ、参加者が集まる前、「ではワシも行くわ、話相手でも良いか?」。北海道からと説明すると、喜んでももらえた様子。

 そうなのだ。本州のガイドさん。自身のために歩く。毎月28日、ガイドを担当して、このコースを歩くが月の営為。
 そう、決めているのだ。
 「自身のために歩く」「東照宮、境内宮、そして平和記念塔」。それぞれに自身を見せる、自分をみてもらう。雨、風、寒暖。
 関係なく歩く。それは自身のためであり、生涯一度歩けば、それで良い。そうしたことでは、ないのだ。
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今日的には十勝かも、しかし釧路に開設 日本銀行営業網で南千島をカバー220317
今日的には十勝かも、しかし釧路に開設 日本銀行営業網で南千島をカバー220317

紗那(択捉島)派出所。根室事務所管下の川上(現 標茶)派出所に釧路派出所。

明治26年のこと、日本銀行はどうも本店直属の根室事務所、その派出所に3カ所を選び、もっとも東方は千島国紗那郡(択捉島)に開設であった。

もちろん独立した事務所はなく根室と釧路では民間銀行支店、川上と紗那は戸長役場などの庁舎に同居していたようだ。明治31年まで5年間存続。

他方の考え方は本店直属はありえず、当時、道内唯一の支店、小樽支店管下の事務所。そうする味方も成立する。そこのところ、照会中である。

根室は明治15ー19年に根室県庁所在地。釧路国川上郡は北海道集治監釧路分館が設けられ、官金需要に応じた営業網ではなかったか。

債権販売と言っても、マーケットが小さく換金可能であったとは思えない。明治29年に川湯・硫黄山での硫黄原鉱採掘が終了し、標茶にあった精錬所も閉鎖。

恐らくこの点が引き金となって、明治31年には一度、撤退するモノと推量される。そういうことでは、ないだろうか。
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誕」=うまれる、いつわる・いつわり、おおげさにいう、くる 漢字原義220313
「誕」=うまれる、いつわる・いつわり、おおげさにいう、くる 漢字原義220313

1)うまれる=腹のなかに隠れていた赤子が外にあらわれてくる。
2)いつわる・いつわり・おおきい
  =おおげさにウソを言う、てたらめなさま、おおぼら。
3)「ここに」=文頭につく助詞で、「ここに」=「おおいに」と読むこともある。
読み4)「誕」は「コンベン(言)」+「エン=延 のばす」の組合わせで、「延」には「エン」と「タン」の読み。
(延=「ひきのばす」の意味があり、むやみに引き延ばした)
(旦=そらごと、その音を利用して「隠れた卵が外に出てくる」の意)。
(旦=「くる」の意で、転じて赤子が世にでてくることを言う)
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